2010年12月26日日曜日

姿が煙と消えて...

先日、葬儀社の方と話をする機会があった。彼が語った火葬の意味に纏わる話が
印象に残っている。
 
交通事故で息子を失った悲嘆に暮れる母親。泣き叫び、喚き散らし、取り乱して
いた母親が、火葬場で納骨すると、とたんに吹っ切れたようになる場面 に何度
か出くわした。そういう話である。
 
偶像崇拝というのがあるけれども、形の力はすごいのだなと思った。
 
 

2010年12月11日土曜日

一人で頑張っちゃう日本人!? -Give and takeのすすめ-

「心理学ワールド」は日本心理学会の機関誌である。
最新51号に、守谷慶子先生が書かれていたことが印象に残ったので、書き留めて
みる。
 
「The giving tree」という絵本。少年がリンゴの実や枝を利用し、最後は幹も
切り倒して持ち去る。そういう物語。その絵本に対する感想が、「リンゴに頼っ
てばかり。 自分で自分のことはやるべき。」と指摘する日本の子どもが多かっ
たのに対し、「少年はもらうばかりでずるい。もらうなら、与えるべきだ。」と
考え る英国・スウェーデンなどの子どもという図式だ。
 
何でも自分でやらなければならなくて、他人との干渉を避ける日本人は、孤独な
のではないか。
自分でやるのと、やってもらったりやってあげたりするのと。後者の方が人との
交わりができるに決まっている。日本の自殺者の多さは際だっている が、それ
が自己責任にされているように、確かに思われる。私自身も、多少そういう解釈
をする傾向を持っているような気がする。そういう社会が、冒 険を拒み、協力
を拒み、うまく行かないことが多ければ無気力を、そして孤独を生み出す。そん
な解釈もできるかもしれない。
 
虚礼廃止のようなものは、それでいいと思うが、Give と Takeを交換しあうこと
は存外大事で、もしかすると、子どもに教えていかなければいけないことなのか
も知れないと感じたのだった。

テレビゲーム占有率75%

息子が小学校のサッカーチームに入った。年に一度の忘年会に、親子共々参加す
ることになった。
そこで、私にとっては異様な光景を見ることになった。
 
場所は居酒屋。3つのスペースに分けられた。子どものスペース、母親のスペー
ス、コーチと父親つまり大人の男のスペース。互いの交流はほとんどな い。
 
しばらくして、男のスペースからは見えなかった子どものスペースを覗いたら、
何と...。
子どもたちは皆DSをやっているのである。数えてしまった。19人中15人がDSを
持っていて、銘々が画面をのぞき込んでいる。残りの数名が、そ れをのぞき込
んでいる。
 
みな、何をしに来ているのだろう。
不思議な光景であった。

2010年11月27日土曜日

公開講座「子どもの安全のためのデザイン」

子どもの安全のためのデザイン
−病院の傷害データから「キッズデザイン」を考える−
 
生活環境学科が中心となり、産業技術総合研究所 デジタルヒューマン研究セン
ターの西田さんをお呼びして、標記の公開講座が開催された。大変面白く、かつ
楽しい、そして為になる会となったので、少し報告 したい。
 
私の息子がストーブに触れて火傷をしたとき、看護副婦長をしていた叔母に妻が
言われたこと、「そんなの、母親の責任だよ。」は、今のところ evidenceがな
いようだ。見守りによって事故が減るというデータはないというのである。私自
身の感覚としても、見守っていても気づいたとき には手を出すのが間に合わな
い。したがって、見守りの効果というのは、実はいつも見ているということでは
なく、見守る中から危険を予測してそれを 予防する措置を取るかどうかである
と思う。
 
見守りの効果が小さいとすると、環境をどうにかしなくてはならない。デザイン
の出番である。では、どういうデザインにすればいいのか。それを考え るに
は、データがいる。わざわざ怪我をさせて観察するわけにも行かないだろうか
ら、どういう場合にどんな怪我が起きるのかのデータを集めるには病 院の協力
がいる。それで、西田さんは病院からデータを集めるためのシステム構築をし
た。そうすると、自転車が倒れたときに頭部を強打して骨折する ことが多いと
いうようなデータが集まり、ヘルメットをかぶらせる効果が大きいことが明らか
になってくる。
あれ、デザインの話ではなくなってきた。そう、デザインではなく、制度や教育
でも解決に近づけることが可能だ。
洗濯機の上に子どもを置いて入浴の準備をしている間に子どもが落ちたなどとい
う事故もそれなりにあるのだそうだが、これなどは、ドラム型の洗濯機 にせず
とも、そういう情報を親に提供して注意を促してもいい。
 
※3Eと言うそうだ
Education:教育
Enforcement:法律
Engineering:製品・環境改善
 
実はデザインの話もあり興味深かったのだけれど(螺旋階段のある階段の内側に
手摺りをつけることによって掴める場所を作るだけでなく、登る経路を 外側に
することによって傾斜を緩やかにするという実践。蒸気の温度を下げて排出する
炊飯器の開発など)、会場で問題意識として得られたことを3つ 話をしよう。
ひとつは情報の提供。一般の人にとってデザインというのはファッションのこと
であって、プロダクトのことではないという話が会場から出た。そうい う興味
のない人にどうやって情報を発信していくか。インターネットの活用や知識を伝
達できる人材の育成の話が出てきた。
もうひとつは、できることをやろうということ。雨の日に事故が多いからと言っ
て、天気は変えられない。生後12ヶ月頃に誤飲が多いからと言って成 長は止め
られない。ならば、制御可能な変数を変更することを考え、そのためのデータを
集め、3Eとして役立てようということ。
3つめに、経済効果も考えようということ。事故が後遺症として残れば、就業機
会を失い、医療費や介護費用の負担(もしくは介護による就労機会の喪 失)に
繋がり、大きな損失となる。何もしないことは、目には見えない損失を放置する
ことという論は説得力があった。
 
関連サイト
子どもの傷害予防カウンシル
http://www.cipec.jp/index.html

2010年11月15日月曜日

旅日記<18> - ベネチアの街で

夕方の便に乗るので、少し時間があった。
 
街を歩き回っている中で、ベネチアの広場・街路・中庭と建物を白と黒で塗り分
けたら面白かろうと感じた。芦原義信氏の「街並みの美学」に紹介され ている
ノリの地図をベネチアでやってみたらという思い付きである。
ベネチアでは、ごく細い路を進むと急に広場に出合って視界が開けるということ
がある。路の広さも一定しない。そういう面白さが、どんな都市計画と 結びつ
くのかがわかるのではないかと思ったのである。

しかし、地図を作らずとも3つのことが関係していると思い当たった。
 
ひとつは、人は車よりずっと幅が狭いということである。
こんな狭い路でも人はすれ違えると思ったときに気づいたのだが、1mの幅で人が
すれ違ったとして、車にすると4mくらいにはなるだろう。これを規 準としたと
き、街は4倍のスケールを持たなくてはならないことになる。それはすでにス
ケールアウトだ。「人が通れればいい。」という条件だからこ そ、変化が付け
られる。
 
次は人が建物に吸い込まれるということだ。カフェがあり、家があり、美術館が
あり、教会がある。そういうところに人が吸い込まれるから、街路や広 場が移
動したり立ち止まったりする空間として成立している。車は人が入るスペース以
外に駐車場を用意しなくてはならない。それも直線と緩やかな曲 線だけで成立
するものでなくてはならない。
それなら、人がステップを踏んだり、ターンしたりできることも変化をつける可
能性と関わっていそうだ。
 
3つめは、ヴァポレットやゴンドラが交通として歩行者と独立していることだ。
車を悪者にして説明してきたが、ベネチアでそれにあたるのが船だ。船 たちは
人の移動とは別のレイヤーを移動している。動きが人と異なるため、別の空間形
態を要請する「交通」が重ならないからこそ、歩行空間に変化を 与えられる。

こんなことを考えながら歩いて、そうか、面白い街というのは、やはり歩くこと
がベースにある街なのだなと思い至った。
 
 

旅日記<17> - 天井画は鑑賞に堪えない?

朝、宿の近くの教会に行ってみた。
「地球の歩き方」では星が3つ付いていたが、行く必要はないものだったと思
う。確かにティントレットとかベルニーニとか、有名どころが描いた天井 画な
どがあるが、照明もひどいし、距離が離れているので見るに堪えないのだ。
 
タブロー(tableau)というのは、ダ・ヴィンチが発明したというのはウソだろ
うか。彼は何枚かの絵を持ち歩いていたと言われる。そういう絵 の描き方は、
絵が建築に従属しないようになって初めて出てきたもので、長いフレスコ画の歴
史から解き放たれて油絵(祭壇画など)が主流になってい くエポックだと認識
している。
 
とにかく、教会で見る天井画は感動できない。同じティントレットでも、美術館
にあるものは鑑賞の対象となる。感動もできる。しかし、天井画は装飾 に過ぎ
ないような気がする。距離と大きさ、照明状態、見上げるという行為、これが絵
画には向いていないのだと思う。装飾については、天井を見上げ ても感動でき
ることがあるが、それは凹凸があるからだろう。
 
さて、こういうことを考えてきて、ミケランジェロやラファエロは偉大なのだな
と思った。『アテネの学童』や『最後の審判』は...ありゃ、やっぱ り天井
ではなく、壁にあるのね。

旅日記<16> - 学会で反省! もっと勉強せねば

今回、会場にいた日本人は一人だけだった。
1日目のGala dinnerには一人で出掛けたのだが、話をしている人の脇にいた
ら、「一緒に座りましょう。」と言われて、仲間に加わることができた。日本人
で群れてい ることが圧倒的に多い私としては、新たな経験だった。
 
彼らの話を聞いていると、なかなかに知識が豊富であることがわかる。たとえ
ば、谷崎の「The Shadows」は有名らしい。教養として読んでいるようだった。
「日本ではなんで電線があんなぶら下がっているんだ?」とか聞かれたときに、
説明ができ ると良かったのだが、あまりうまく説明できなかった。
 
※6人で座ったが、日本人を除いた5人中、4人が日本に来たことがあるよう
だった。日本はfar awayではないらしい。
 
他の話題も、きちんとは憶えていないのだが、説明ができない・意見が言えない
と感じたことが多い。私にとって英語で話すことは大変な負荷が掛かる ので、
考えながら話すことができない。すでに説明を持っていること以外、口を差し挟
めないのだ。
彼らにとって英語のストレスが小さいことを考慮しても、とりあえず説明や意見
を持っていることに感服した。私の考えは、日本人には伝えられるが、 外国人
に説明できるレベルにまで整理されていないのではないかと、そう感じた次第で
ある。
 
憶えているような質問には、ホームページで答えてみようと思っている。
多少は、日本を理解してもらうのに役立つかも知れないし。

2010年11月13日土曜日

旅日記<15> - based on エキスパート or common people?

学会場は、古い館の中だった
 
学会で日本語で話しかけられた。どう見ても外人さん。話を聞いてみると、東京
大学で学位を取ったらしい。なるほど。
 
さて、彼は私の発表のblind reviewをしたらしく、内容をよく知っていた。あり
がたいことに面白いと思ってくれたらしく、ホームページをチェックしたから顔
を憶えていたのだとい うようなことを話していた。
 
彼は心理的なアプローチというのにも興味があったようで、東大の高橋研などに
も出入りしていたようだ。私の研究を「日本人らしい」研究だと言って いた。
こういう心理的な研究は、彼の勤務するベルギーなどではまったく理解されな
かったらしい。そう言われれば、Colour & Light in Architectureと題されたカ
ンファレンスでも、多くは歴史や伝統や現状の紹介である。皆、自分が集めた色
や照明に特徴のある画像を並べて、 それをだらだらと説明するだけだ。主張は
全体的で抽象的なこと。なきがごとしと思えることも多い。
照明系のいくつかの例外を除き、そういったアプローチは出てこないのである。
 
以前、IAPSのカンファレンスに参加したときも感じたことだが、彼らは自分の感
じたことを主張するけれども、客観性などはあまり気にしないよう だ。これは
デザインをやっている人間に共通と括ることができるのかもしれないが、色彩調
和論を作るのは西洋人、検証するのは東洋人という傾向もあ るから、やはり文
化差も根強いのだろう。
彼らはエキスパートであり、検証など必要ないと思っているのではないか。そう
考えるとコルビュジェの振る舞いの意味もわかる気がする。
そういうアプローチと、ユーザーの情報を取り入れていこうという心理系のアプ
ローチはだいぶ異なる。日本にいたからこそ、そういうことに sympathyを感じ
てくれたのだと思う。

旅日記<14> - 晴れのち雨、豪華な宿

宿泊したホテルの部屋
 
最高気温7℃ながら晴れ渡ったロンドン。最高気温15℃のベネチアに向かうのを楽
しみにしていた。しかし、着いたら雨。それもそれなりの強さだ。
 
ヴァポレットの料金を聞いて、耳を疑う。一回乗船すると800円からのお金が飛
ぶのだ。3日券で3,600円。しかし夜。この雨ではしかたがな い。

リアルトから少し入ったところにある宿。大体の検討はついているのだが、何し
ろ夜。よくわからない。それでも、ごちょごちょ動いたら、目指す広場 に出
た。Webで見たホテルがそこに。安堵。
 
ここは、ロンドンと同程度の料金なのだが、部屋の広さも設備も朝食も、すべて
格段にいい。この値段でいいのかなと思うほど。
昔、ホテルのインテリアデザインを手がける人が、機能性は多少犠牲にしても、
とにかく雰囲気を作ることが満足に繋がるという話をしていた。そう、 雰囲気
もいい。
 
2つ難点があった。
ひとつは、いくつかの館をつなぎ合わせたらしく、一番奥の私の部屋に行くまで
に上ったり降りたりを繰り返す必要があったこと。もうひとつは、湯船 の栓が
イタリアンで、お湯を貯めるとちょろちょろ漏れる音がすること。だんだんお湯
が減っていくこと。ぜんぜんゆったりとできなかった。
 
恐るべし、「ちょろちょろ」音。

旅日記<13> - 透過と反射2態

まあ、写真を見れば終わりだ。
 
透明なチューブのような渡り廊下が道路に掛かっていて、朝の通勤ラッシュ時に
そこを通る人の影が壁面に映っていた。それがおもしろいかな、と。
もうひとつは、ベンチに腰掛けたら、目の前のガラスに姿が映ったので記念写真
でも撮るかと。自分の写真は、まったくないことが多いからね。
 
...、こんなことも生態学的なデザインのヒントになるかなと。

旅日記<12> - まばらな木々

そう、ロンドン動物園は、リージェントパークの一角にある。動物園までバスで
行く手もあったが、時間がないときは徒歩に限る。時間が読めるし、い ざと
なったら走ることもできる。
という訳で、公園の中、20分ほどの道のりを往復したのだった。
  
帰り道、眺めていて感じたのは、木々がまばらだということだ。広葉樹だから足
下は幹だけだし、そもそも間隔が空いている。それがいいのだなあと 思ったのだ。
日本の森は木が主役だ。しかし、こちらは芝が主役であって、木々は脇役であ
る。だから平面的な拡がりが見える。それがいいのだと思うのだ。
 
教会に行くと、皆天井を見上げる。湖や海があれば、皆それを見る。
壁のような垂直のものは、平面的な拡がりを持つものと比較して魅力に欠けるの
ではないか。大胆な物言いだが、そういうことを考えた。

旅日記<11> - ロンドン動物園(ペンギンプールへの憧憬)

ペンギンプールと園舎(Zoo world)

外国で動物園に行くのは初めてではない。バルセロナで添乗員のジュリーと白い
ゴリラを見に行ったことがある。そういうのも楽しいものだ。海外旅行 で動物
園を訪れるという行為はお薦めできる。ただ、今回はそういう意味合いがあった
のではなく、建物を見に行ったのだ。
 
私はペンギンプールしか知らなかったが、大鳥かごも有名だし、水族館もなかな
かだ。象など大型動物の生態を見せていたであろう園舎も、すばらし かった。
こう言ったら怒られるでしょうが、藤本荘介氏の「情緒障害児短期治療施設(伊
達市)」と大型の頂側窓を組み合わせたような印象。
 
ペンギンプールは、何と言っても、2重螺旋の板が特徴だ。こんな造形をよくも
考えついたものだ。鉄筋コンクリートの可能性を拡げたと言われるけれ ども、
これよりすごいものは現れていないのではないか。
ペンギンの側から見たときどうかはわからないが、見物している人間側から見る
と、構造美とペンギンの動きとのharmonyがすばらしい。嗚呼。
 
それから幾年月。
ロンドン動物園は、閉園に追い込まれるところを市民からの寄付で何とか免れた
のだという記事が地球の歩き方に載っていた。それぐらいだからだろ う。お金
のなさが、そこかしこに漂っていた。
「ロケーションが悪いもんな。」行くのにそれほど時間が掛かるわけではないけ
れど、なんか遠いという感じを与えるし。中身も地味に見えるし。
でも、お薦めです。私、割と好きです。地味だけど、味わいがあるのがいい。
(もちろん、建築に興味のある人にはお薦めです。なんで、昔の方がいいデザイ
ンが生まれたのだろうと疑問を持ったくらいなので。)

2010年11月12日金曜日

旅日記<10> - はーれたーそらー。

とにかく写真を撮るのは今日しかない。時差ぼけの夜中に確認した天気予報は晴
れ。これに掛けるしかない。
>>>それが何とも、雲一つない晴れから撮影は始まったのだ。
 
まずは、ロンドン市庁舎、続いてもう一度ガーキン、その後は...、あー、忙
しい。
 
ロンドン市庁舎の方は、来年には(たぶん)出るであろう本を見ていただくこと
にして、ガーキン。こうして2つ並べてみると、やはり晴れていた方が いい。
 
たまに晴れるから、それが心に残る。それでいいじゃないか。
そういう意見は、あるかもしれない。
 
それでも、グレートコートの方を推すけれど、ガーキンの方だって、ロンドン市
庁舎あたりから見た夜景も、晴れ渡った空に映えた姿もなかなか良かっ た。そ
こらの四角いビ ルより数段良かった。だから、矛先は鈍る。
 
出会いは一期一会。
いいところを憶えておきたいね。

 

旅日記<9> - 青と黒とオレンジ?

これは未完のままになる旅日記。単なるメモ。
 
雨に逆らわずにと訪れた大英博物館とテートギャラリーで考えたのは、青と黒と
オレンジのことだった。
今年、3年生にやってもらっている研究室の雑誌作り。

学生が「先生も何か書け。」というので、いくつか候補を挙げて選んでもらっ
た。選ばれたの が、色を一つずつ挙げてエッセイを書くというスタイル。すで
に、白と赤を書いた。
「さて、次は何にしようか...。」
その候補がこれらになりそうだ。
 
A coastal scene; Rysselberghe
Saint Jerome in a rocky landscape; Joachin Patinir
View of Thoems; Sisley
これらは、青の表現の違いのつもり。

オレンジと黒はギリシャの壺など。
エジプトの黒い彫刻もあった。壁が黒いところも。
 
時間があまりなかったので、考えながら見るわけにはいかなかった。もうちょっ
と味わえると良かったのだけれど。
次の締め切りまでに、形を成すかなあ!?

2010年11月11日木曜日

旅日記<8> - ハイテックの末路 ロイズ

ロジャースのロイズ・オブ・ロンドンは、ガーキンこと30 St.Mary Axeの向かい
にある。
「ハイテック」というのは、この場合、表現でしかない。建築の技術がハイテッ
クなのではなくて、表現がハイテックなのである。
 
未来都市の画というのをいろいろな人が考えた。だが、我々が思い描くプロトタ
イプは、割に固定しているのではないか。あまり建物らしくない(= 直方体で
はない)高層の建物が建ち並び、その隙間をハイウェイが張り巡らされている。
そんなもの。
でも、人々に「どんな生活がしたいですか?」と訊ねたときに返ってくるのは、
もっと庶民的だったり、リゾートだったり、郊外だったり、田舎だった りのプ
ロトタイプの方ではなかろうか。
 
ハイテックというのも、それが技術革新と結びついて明るい未来を暗示していた
ときは意味があったのだろうが、表現だけの世界になってしまうと、好 き嫌い
の話になってしまう。
...で、私は「最低!」と思った。
何しろ、汚らしいのだ。その何割かは暗鬱な寒空のせいであるにしても。
 
ロジャースは、素材もしくは素材の加工、もしくは素材の色味の選択を間違った
と思う。

※でも、写真映りはそこまで悪くはないねえ。映像として流布されると、違う印
象を持つかもねえ。

旅日記<7> - ガーキンとグレートコート

画像が横に並ぶといいのだが...。
 
同僚のT先生とヘルシンキにある教会の話をしていたときのこと。見に行くのな
ら、冬だろうと言われた。冬が厳しいからこそ、その期間が長いからこ そ、そ
の時期に行くべきだ。そうでないと本当の姿がわからない。
 
ガラスのビルが増えて、それでいいのかという話で行くと、今日のようなどんよ
りとした小雨交じりの天気の時こそ、その真価を問う絶好の機会と見な せなく
もない。
 
ガーキンは、灰色だった。何しろ一面の曇り空で、それを映し出してしまうのだ
から、道理なのだ。一方、グレートコートの方は明るい。空が灰色では なく明
るい白に感じられるようだ。
反射と透過。そこには、これだけの可能性の違いがある。
 
私は、ひとまずグレートコートの方を押したい。この冬の寒空の中を来訪する者
達に、安らぎを与えるであろうから。

旅日記<6> - ロンドンもガラスが増えた

バスはルートも到着時間も良くわからないので、地下鉄で移動。それでひょいと
地上に出ると、急に建物に囲まれる。
普通のことのようだが、それが別種の建物だと驚いたりする。
 
宿の近くはイギリスのオーソドックスなイメージ。少し陰鬱なレンガの建物が並
ぶ。赤い2階建てバスがお似合いだ。
それが、セントポール寺院の界隈、「City」になるとガラスが増える。本当にガ
ラス張りの建物が多い。円蓋の上の展望台から眺めてもそれは分か る。ロンド
ンの人達も、光が欲しいのだなあと思ってしまう。
 
オフィス街がガラスの建築になって行くのは、どこも共通なのだろうか。
オフィスだけがガラスになっていくのは、一見、不思議な現象だ。だって、商品
は自然な光で眺めたいし、いい気分で購入を楽しみたいような気がす る。住 宅
なら、もったいないから自然の光が入った方がいい気がする。オフィスは映り込
みがあるからずっとブラインドを下ろしていた時期もあった。なの に、なぜガ
ラス!?
 
私が思いつくのは、働くというのはやはり大変なことなので、みんな息抜きがし
たいのかなということ。外の風景って、見えるとほっとするじゃな い!?
光は何とかすることにして、風景が眺めたいのかなと。
 
みなさん、どう思います?

旅日記 <5> -「わさび」で元気が出た

相変わらず時差ぼけである。時差ぼけのままの方が、帰国したときいいかもしれ
ない。今回は1週間の滞在だから、ぼちぼちと付き合うことにする。
 
数万円を払って立ち寄ったのに、ロンドンは朝から雨。今作成している建築環境
工学の本に掲載する写真を撮ろうとやってきたのに、これでは意味がな い。
まあ、屋内でということでセントポール寺院に入ってみた。
ここはささやきの回廊が有名。レンが設計した円蓋が本当に円なので、直径の端
と端に人がいると、ささやいただけでも反対側の人に音が伝わるという ことら
しい。(えー、今考えてみたけど、よくわかりません。円だとなぜいいのか?)
 
円蓋のてっぺんまで登れるのだが、そこからの眺めも雨。「ガーキン」も「テー
トモダン」も雨に煙っていた。
 
さて、セントポール寺院の近くに「わさび」という店を見つけた。何と、ちらし
寿司がパックになって売っていた。お昼も近づいてきたし、ちょうどい いと購
入して食した。醤油でなく、チリ系のソースだったので驚いたが、なかなかだった。
昔は、海外では日本食も中華も食べなかったのだが、最近は好きなものを食べよ
うという気になってきている。
少し元気になった。
http://www.wasabi.uk.com/

旅日記<4> - おんぼろ宿

吐水口の不思議...というほどでもないか
 
外国に行くときは、ネットで宿を予約している。面倒だからいつもHotel clubと
いうサイトを使っている。相場より安いようなことが書いてあるが、定価が高す
ぎるだけのこともあるから、70%offだってあてにならない。
 
ロンドンは宿が高い。安宿が集まっているパディントンあたりにと、探したのが
Orchard hotel London。ネットでは良さそうだったが、1万円の割にはおんぼろ
だった。テレビとドライヤー以外に装備はないし、気温7℃なのに暖房は入らな
いし(夜 は止まるらしい)、 シャワーのユニットは新しかったが、石けん受け
はない。冷たいタイルに敷く足ふきマットも用意されていなかった。トイレの水
はちょろっとしか出ず、うまく 流れない。一泊8,000円くらいまでしか出さな私
が出合った中でも最低の部類だ。
これで1万円は高い。ポンドが180円だった頃は、これが1万5千円以上なの
か。納得いかない。
 
さて、私は国の工業技術の程度を見るのに、洗面台の栓がきっちりしているかど
うかというのがいい指標だと考えている。日本はまず問題ない。世界に 誇る
TOTO、INAXの技術はピカイチ。ロンドンは?
85点くらい。下着や靴下の洗濯にまったく問題はなかった。
 
ただ、その時に驚いたのが、お湯と水の出方。
吐水口からお湯と水が2つに分かれて出てくるのは初めて見た。竜頭の滝か!?

旅日記<3> - ターナー

オランダを訪れたとき、子供達の顔を見て、「なるほど、フランドル絵画そっく
りだ。」と思ったことがある。
フランドル絵画に登場する子どもたちは、金髪で、肌が透き通るように白くて、
頬がほんのり赤みを帯びている。「なんて愛らしい子供を描くのだろ う。」と
思っていたのだが、別にフランドルの画家達が創意工夫したのでなくて、愛らし
い対象をそのまま描いたのらしいと気づいたわけだ。
 
HeathlowからPaddingtonへ向かう列車は、地平線すれすれの太陽が映し出す光景
の中を走っていた。その時撮影したのが、この写真 である。
「ターナーじゃん。」
印象派の先駆けとも言われるターナー。「印象・日の出」などの絵を見ると、ど
うしてこんなに抽象的な表現を思いついたのだろう、と、それが疑問 だったの
だが、何のことはない、冬が押し迫ったロンドンでは、日の出や夕暮れ時に、こ
ういう風景が現れるのだな。
 
創造性というのは、個人の中から湧き上がってくるものではなくて、そこにある
ものから選び取ってくるものなのかもしれない。そんなことを思った。

P.S.
後日、テートギャラリーで見たターナーは、もっと色鮮やかだった。そのあたり
は誇張が入っているかもね!?

旅日記<2> - 映画は趣味じゃない

個人用の小さな画面ーロード中ちょっとぼやけ気味
 
機内で映画を見た。「Pirates of Caribbean 3」
本当に見ただけ。ほとんど英語はわからなかった。
 
さて、見ていて感じたのが、映画っていうのは非現実で気を奪い、誇張してわか
りやすくしているのだな、ということ。
普段ならあり得ないものを、映像という手段で、「さもありなん。」というよう
に見せる。俳優は、こんなに顔を動かさないだろうと言うくらい表情豊 かに
て、場を作る。
アクション物の娯楽映画だからかもしれないが、そういうことを強く感じた。
 
私はそれが駄目なのだよね〜。誇張されているところを現実と遊離している取っ
てしまうことが多くて、それで映画が嫌いなのだよね。
 
でも、学生達には映画好きも多いから、時に話題作りのつもりで勉強してみるか
と、見たのでした。

おまけ。
もうひとつ感じたのが、個別に見るという形態。一人一人が違う物を見て聞いて
いる。昔は、一斉に手前のモニターを眺めたものだが。それが懐かしく 感じら
れた。
今の人は、そういう感覚、まったくないのかしらん。

旅日記<1>-億劫な出発

今回は、億劫だった。
年に一度は学会発表を、と発表原稿は書いたものの、まあ、いろいろと仕事があ
るのを何とか形を付けて、いくつかは機上でこなすことにして出発であ る。学
園祭を含むこの期間に無理矢理出発することにしたが、今年はゲートを作ること
にしたので、それが安全に組み上がるかも多少不安だ。
でも、これらは言い訳のいくつかに過ぎない。単純に歳を取ったと言ってもいい
ような気もする。わざわざ日本語の通じない、毎日レストランを探さなくてはな
らない生活が億劫なのだ。ホテルの予約も飛行機の予約も億劫なのだ。初めて外
国を訪れた時の高揚はまったくない。無事、任務を終えて帰ってこられるかとい
うことだけが気になる、そんな感覚。
嗚呼、それなのに、11:10発のBAはリストに表示されない。ゲートまでたどり着
くと11:00発になっていた。どういうことなのだろう。
 
とにかく億劫だ。

2010年11月9日火曜日

蓮舫さんと鈴木さん

ノーベル賞の発表は、もうずいぶん前のことのようだ。
北海道大学名誉教授の鈴木章さんの受賞では、仕分けで名を馳せた蓮舫議員への
一言がクローズアップされていた。
「No.2じゃダメなんですかなんて言うのは、科学を分かっていない人が言うこ
と。No.1じゃなきゃダメなんです。」
そう、科学はNo.1だけに特権が与えられる。たとえ同時期に独立して発見した事
象であっても、学会誌への掲載が一月遅れれば、それは敗北という こともあ
る。特許もしかり。他人に先んじて成果を出すことが大事。そうなのだが、私は
「鈴木さんは政治を分かっていないのかなあ。」と思わなくも ない。
スーパーコンピューターより環境技術の支援に取り組んだ方が日本の発展にとっ
て得策と考えたなら、スーパーコンピューター向けの予算は削ってもい い。政
治というのは、そういう大局的な見方が必要とされる場所であり、ある特定の分
野がNo.2になることよりも利益が出るのなら、No.2でも いいんです。
蓮舫さんが、そこまで考えて発言したかは定かでない。しかし、これはデザイン
と研究のアナロジーとも思える。研究は一部分を先んじて究めることが 大事な
のだろうが、デザインは全体を考えてバランスを取ることも大事だ。
普段、デザインと研究というものの関係を考えることがあるので、そんなことを
思いついた。

2010年11月3日水曜日

勉強法

忙しい。エッセーなど書いている場合ではない。ただ、昨日ショックを受けた文章に出合ったので、書き込んでみる。
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何でこんな大切なことを、学校や塾では教えてくれない の?
と、あなたは悔しがるかもしれません。
けれども、それは当たり前です。なぜかと言うと・・・

「勉 強」と、わたしたちはたったのひとことで表現してしまいます。それは子どもたちにとって本当にイヤなことば。多くの子どもたちが、それを一匹 の大きな魔物 のようにとらえています。それに対してお父様もお母様も、どのように太刀打ちしたらいいのか、そのすべを教えてあげることができません。

「勉強は勉強だ」


これでおしまいです。けれどもそのことばを

・どんどん分解して、最小単位にまでしてしまい、
・その一つ一つにどんな意味が含まれているかをよく考えて、
・それを自分はどうやったら実行できるかをまたよく考えて、
・「できる」と思うものから、一つ一つ実行し、モノにしていく。

このようにしたら、ワンランク上の高校に合格する力なんて簡単に身につけることができます。

けれどもあなたはきっと、ここでひとつ疑問に思うことでしょう。

「 こんな大切なことを、なんで塾では教えてくれないのかな」

        ・・・それは簡単なことです。塾の先生にはそんなこと は、関心の 対象外だからです。


 

ちょっと実験してみましょうか。
お母様、あなたが塾の先生になったつもりでじっと、つぎのような想像をし てみてくださ い。・・・いいですか。


いまあなたの目の前に20人の生徒がいます。その生徒たちに、ある数学の問題の解き方をなんとかして教えよう、理解させようと、真剣になって いる自分を想 像してみてください。

教えよう、理解させようといっしょうけんめいになればなるほど、あなたには目の前にいる子どもたちのことが目に入らなくなります。いいえ、 目では見 えています。でもあなたの頭の中は

「どんな言葉で説明したらいいか」
「黒板にはどんなことを書けば理解してくれるか」
「ここで質問が出たら何と答えたらいいか」
「わたしの説明をみんなちゃんと聞いているのかな。一生懸命説明しているのに」

このように、気になるのは自分の教え方のことばかりです。
自分の教師としてのジョブがまっとうできているかということばかりが気になって、
子どもたちが、

「わたしのことばをどのようにノートに書け ばいいか 悩んでいるかもしれない」
「計算の書き方がわからなくて悩んでいるかもしれない」
「今の説明をもう一度言ってほしいと思っているかもしれない」
「家に帰ったら何をどう復習すればいいか、わからないかもしれない」


そのような子どもがかかえているさまざまな悩みにまで、頭が回らなくなります。


塾の先生に関心があるのは巧みな話術で生徒をひきつけること。そして人気講師になって、給料を上げることです。

ですから、自分の教科の知識を増やし、教え方(トーク)の技術を高めるのが最大の関心事なのです。

で はなぜ、このわたしには教えられるのでしょうか。それは、17年間もの間、個別指導の塾で指導をしてきて、教えてあげるとすぐに「わかった。 これでもう OK」と、軽く考えてしまう子どもたちの姿に、いつも危機感を感じていたからです。そして授業にできるだけ多くの練習を取り入れて、生 徒 のひとりひとりが練習用の教材をどのように使って勉強するのか、じっと見てきたからです。これは本当に大切なことで す。受験指導でいち ばん大切なのは、教えることより先に子どもの勉強する姿を見ることなのです。

子どものことが見えなくなる。そんなむなしさに耐えかねて、わたしは塾の教室から黒板をとりはらいました。 「うまい教え方」に気もちが行っているあいだは、子どもたちのことが見えなくなるからです。 子どもたちと向かい合うのではなく、子どもたちと並んで、いっしょに見て、いっしょに考えるようにしたかったのです。

そうすると見えてくるたくさんのこと。


「なるほど、この子はこんなことをしていたのか」

  →だ から、今までダメ だったんだ。
  →だから、こんなに優秀なんだ。

そのような、子ども本人もほとんど気づいていない、勉強方法に関するたいせつなポイントを、253ページのマニュアルにまとめました。


...これは谷澤潤さんという方のホームページに掲載されている文章の一部です。すごく、考えさせられます。



2010年11月2日火曜日

13歳のハローワーク、20歳のハローワーク

あら、アップしていなかった。
8月に書いたままだった。
一応、載せてみよう。すっかり、載せた気でいたので。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2番目の娘が中学を受験したいと言い始めた。
何しろうちは子供の人数が多いのだから、私立はだめで、公立の一貫校ならい
い。ダメだったら地元の中学に行きなさい。これが我が家のスタンスであ る。
 
さて、学校説明会に参加して思ったのが、大学と同じではないかということだ。
・6年間の学習計画:シラバスの作成
・学習ポートフォリオ
・キャリア教育(職業調べ:インタビューや職場訪問、リサイクル活動、サマー
キャンプ)
...これは、その時のメモである。普段、身の回りで聞く言葉ばかりだ。なる
ほど、文部科学省の影響は大きいものだと感嘆した。
 
計画的に物事を進める。そういう能力が欠けていると感じる。だから、きちんと
調べて、目標を立てて、それに向かって邁進するよう教育する。
道理である。
 
しかし、ある時から、それに疑問を持つようになった。Tさん(謀女子大学の先
生)に、「最近は、職業調べなんかさせて「これしかない。」という進 路を見
つ けさせるから、希望が叶わないと「自分がすべき仕事はこれじゃない。」な
どと言って就職しない学生が増えるんじゃないの?」と言われたからであ る。

御意。

計画性は、日常で身につけさせるべきだ。将来の夢なんて、いくらでも変わるの
だし、だいたい、就職はお見合いだから、相手に気に入られなくてはダ メで、
自 分が気に入るのは何かという視点だけではダメだ。でも、だいたいは前者の
視点だけで終わっている気がする。

まあ、授業や指導に対し「それって何の役に立つんですか。」なんて言う輩に
は、「あなたは何を目指しているの?」と聞いてしまったりするので、文 科省
とは同じ穴の狢なのだが。
 
13歳にはいろいろあるということを知らしめ、20歳には相手は何を望んでいるか
を知らしめる。そういうことでいいのではないだろうか。
 

2010年10月31日日曜日

中高一貫校受験で求められること=大学で、社会で求められること?

娘の中学受験は、ほとんど力が入らないまま模試を迎えた。まあ、一度くらいは
模試を受けてみると格好がつくかということである。
 
娘が「全国公立中高一貫校対策テスト」を受けている間、保護者向けの解説授業
というのに参加してみた。仕事をしつつ、つまみ聞きした内容の中で、 公立中
高一貫校が一貫して求めている力は4つに大別されると講師が話した。
 
- 小学校で学んだ内容を基にして思考・判断・表現する力
- 身近な生活の中から課題を見いだして、思考・判断する力。および、社会への
関心の程度。
- 資料などの与えられた情報を整理して読み解く力。課題を見いだし、解決する能力
- 自分の考えを相手にわかりやすく説明・表現する力
  
 今度、学科会議で、こういう力を養成しましょうと話をしようと思い、メモし
たのでした。
 こういう力に基づいた「感性」というのを養成したいと。

2010年10月15日金曜日

結婚記念日には、仏花?

先日、結婚記念日であった。例年、花を贈っているので、どたばたと仕事を済
ませ、夜の8時頃、国分寺駅ビルに入っている花屋に寄った。
珍しく男性の店員だったが、予算と用途と「暖かい感じで」というリクエストだ
け出して、待ち時間が暇だからと買い物に出掛けた。「15分くらい掛 かりま
す。」と言われ、ちょっと長いなと思ったが、実際には20分以上掛かった。そう
してできあがった花束は、「仏花」であった。一応、花束の体 裁を取ってはい
るが、花の印象は墓前に供える花と何ら変わりはないのである。
 
私は花の種類を記述できない人なのでもどかしいのだが、Coolな黄色、Coolなピ
ンク、やけにド派手な赤紫の葉が入っていたりして、冷たい印 象。赤にもCool
な赤とWarmな赤があると唱えるカラー・キー・プログラムの信奉者になってしま
いそうな花束だった。
 
別の店員に別の花束を作ってもらおうかと思ったが、もう遅いので無理と判断。
「いらん」と突き返そうかとも思ったが、「短気は損気」。気が変わる やも知
れぬからと自転車を漕ぐ20分の間、考えることにした。しかし、何度眺めても妻
に送る気にはなれず、翌日は生ゴミ回収の日だったので、ゴミ 置き場に捨てて
から自宅に戻ったのだった。

この心のマイナス状態はしばらく回復せず、散々な結婚記念日となった。

P.S.
以前、この店の前を通りかかったとき、花の状態が良くないのはわかっていたの
で、本当はあまり入りたくなかった。仕事をぎりぎりまでやって、他の 店に行
く時間を取れなかったのが悪いのかも知れぬ。やはり余裕が大切だ。

2010年10月10日日曜日

cafeトキワ荘 夢は叶えるもの

2010年9月30日木曜日

書評:配色事典














栗皮色と花浅葱、青朽葉に浅紅

配色事典、青幻舎
 
副題に「大正・昭和の色彩ノート」とある。日本色彩研究所を創設した画家、和
田三造が収集編纂した348の配色(2色配色120点、3色配色 120点、4色配色
108点)を掲載している。
 
2色配色を見ると、くすんでいる。赤・黄・緑・青・紫というような最高彩度の
色はほとんど使用されていない。それがある落ち着きと侘び寂びのよう な感覚
を与える。
意外に同系色相や類似トーンの組み合わせばかりではない。ひとつには、明度差
のある配色であれば調和感を生み出すということがあろう。しかし、栗 皮色と
花浅葱、青朽葉に浅紅というような色相差がある組み合わせが多いのには驚く。
これらの配色からはあるセンスを感じるが、万人には受け容れら れないものだ
ろうと思う。

3色配色になっても、傾向は変わらない。明度差を活かしながら、最高彩度の明
るい色などの明清色は余り含まない。そして、色相は驚くほど変化が付 いてい
ることも多い。和田は、そこここの色彩・素材の切れ端を収集していたとあるか
ら、彼のお眼鏡にかなった配色がそういうものだったということ だろう。
 
ここまでは、そのセンスに納得する部分がある。しかし、4色配色はあまり納得
できないものも多かった。基本としては、2色の間に2色を挟み込んで いるの
だが、2つの2色ペアといった風情で、結局分離しているように見える、など。
現実のデザインというのは、こういう4色の使い方はあまりしないのではない
か。もっと別の配列・構成があるのではないか。そういう思いが一つ。4 色以
上になると、グラデーションもしくはトーンの統一・色相の統一といった共通性
を持たせないと調和しないのではないかという仮説じみた思いが一 つ。
 
そういう本でした。

2010年9月28日火曜日

萌える風景

通勤路の途中に、取り壊し中のマンションがある。周囲の住宅に気兼ねして
か、中央部から壊し、周壁に至るようだ。その方が、音の問題が発生する期 間
が短く済むのだろう。
 
その風景を撮影してみた。萌えるのである。

「地図に残る仕事」というコピーは、どこの建設会社のものだったか。
「地図を変える仕事」もなかなかだと思いつつ、「新しいマンションが建つだけ
なのだろうなあ。」との疑念は消えず。

はかない風景をもう数日、楽しむことにしよう。

2010年9月18日土曜日

景観に関連した施策の評価基準

建築学会ので聞いたお話。景観関係のパネルディスカッションだった。
途中から入ったので曖昧なのだが、公共的なイベントをやるときに、4つのポイントから評価して実施するかどうか決めるという。

(1)経済的な効果
 イベントをやることで、地域にどれだけお金が落ちるか
(2)宣伝効果
 そのイベントがさまざまなメディアによって伝えられることで、どれだけ地域の宣伝となるか
(3)社会的価値
 貧しい人などにどんな意味があるか、地域住民が地域を見直すきっかけになるか
(4)人材育成
 さまざまなノウハウを蓄積して、今後を担える人材を育てることができるか
 
 これって、良くないですか。とってもバランスの取れた評価視点だと思って紹介しました。東京理科大学の伊藤 香織先生が話されたことです。

(3)に関わると思うのだけれど、「Civic Pride」という言葉も、キーワードとして良く出てきました。地域に誇りを持つってことが大事で、そこに景観は大きく関わっているという話だと思う。


2010年9月15日水曜日

龍安寺石庭

売店が片付けを始める頃、龍安寺を訪れた。
靴箱に靴をしまい、ふっと振り返ると石庭であった。
 
「こんなに小さいのか。」
 
これが第一印象である。
広角レンズで捉えた印象が強かったのだろう。よく考えてみれば、東福寺のもの
などと比較しても遜色ない大きさであるのに、そう感じた。
 
「15の石を、すべて眺められるポイントはない。」
そう言われているので、縁側を端から端まで動きながら確認した。すると、奥の
端に近いあたりに15個を臨むことが可能なポイントがあった。15個 を確認する
ことができるのは天上からのみ。石庭は、人の小ささを示す公案なのかも知れぬ。
謂われは大事だが、確認するまで納得しない。そういう者は公案を考える者には
邪魔だろう。
 
縁側に腰掛けていると、隣の大学生とおぼしき4人組が謎かけをやっていた。
「龍安寺石庭と掛けて、しばらくぶりで会った恋人同士と解く。」
...その心は?...
「水入らず。」
 
なかなかにうまいではないか。日本の将来も安泰だ。
 
その程度で。いやいや、「吾、只、足るを知る。」のつくばいを見れば、そのよ
うな横槍を入れる気も起きまい。
 
嵐山電鉄ののんびりした風景に揺られながら、宿に戻った。
 

2010年9月12日日曜日

京都の夏の知恵

ゼミ合宿で京都に来ている。
たまたま宿への道すがらNPOの建物があり、宣伝のチラシをもらった。京都の住
人が京言葉で京都の暮らしについて語るという企画らしい。そこに、 こんな一
節があった。
※あまりにも読めないと思ったので、所々は私も辞書を引きつつ読み仮名を振った。
 
昔の人の夏の工夫。
襖は御簾(みす)へ。縁側との境を葭戸(よしど)に替えて、庇(ひさし)には
真新しい葭簀(よしず)を掛ける。足下もひんやりした網代(あじろ) や藤筵
(ふじむしろ)を敷いたり、電器の傘、額の絵、花器、絵皿、その他の調度品も
みな涼しげなものに替える。照明の明るさもちょびっと落とし、 電球からの熱
気も抑えて、部屋のくらさからも心持ち涼感を醸し出す。
そして、いつも「雑巾は固う絞って」と云われんのに、夏だけは「雑巾はゆるう
お絞りやす」と。「心もち緩めに絞った雑巾で良し土や藤筵を拭いてお くと、
わずかな水分が部屋の温度を下げるんどすな。」
 この後には、「今日の着倒れ。」で、着物を季節に合わせて替えていくという
話題も続いていたのだが割愛。

まったく、細かく細かく、気を遣って繊細に涼を呼んでいたのだなあというこ
と。クーラーがなければ、こういう気遣いが必要になるのだ。スイッチ・ オン
しか考えないのとは違う。
 
坪庭がうまく作用して、微妙に部屋を行ったり来たりする微風を呼び込むのだと
いう研究者もいる。建物を造るときから、季節ごと、日々、いろいろと 考えて
気候風土に適応していた...。
 
体にはともかく、頭にはこちらの方が良かったような気がする。


 

2010年9月5日日曜日

ストリート・ウォッチング 小林茂雄さんの本に関連したイベントの紹介


PDFファイルでのイベント案内。拡大表示されるはず。
→されなかったので、画面キャプチャーでpngファイルにしました。
 

同じ研究室に所属していた私達の間ではコバちゃん、東京都市大学の小林茂雄さ
んが本を出した。

「ストリート・ウォッチング」

町歩き。ちょっとした仕掛けを含めるともっと面白くなるよ、という本である。
普段見過ごしてきたことを、楽しみながら発見していくテクニック満載 の本で
ある。
建築探偵団を若者がやると、こんな感じになるのではないだろうか。

池袋の近く、鬼子母神近辺で実際に町歩きをして発見を楽しんだ後、ジュンク堂
の池袋本店でトークセッション。そういう企画があるとのこと。
ぜひ、参加してみては?
9月23日(木)の夕方開催。

◆ストリート・ウォッチング
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%83%58%83%67%83%8A%81%5B%83%67%81%45%83%45%83%48%83%62%83%60%83%93%83%4F
◆ストリート・ウォッチングblog http://d.hatena.ne.jp/str_watching/

2010年8月25日水曜日

緑、8月

5月と同じく、那須塩原駅のホームから
 
5月GWに帰省した折、目にした森の風景を紹介し、日本の緑も捨てたものじゃな
いとブログに書いた。
 
8月中旬に帰省した折、目にした緑は記憶の緑。全体に暗い緑。「ああ、これが
印象に残っていたんだ」と思った。
 
記憶というのは、何度も何度も体験したものが積み重なって形成されるのだろうか。
それとも、運命的な一度が大きな影響を及ぼすのだろうか。
 
まあ、どちらのケースもあるだろうが、私の中の日本の緑は、結局、四十数年の
蓄積から逃れられないようである。

2010年8月23日月曜日

書評:「若者はかわいそう」論のウソ

前回の書評と同じ棚に並んでいた本。面白かった。
 
昔、機械化が進むと、(1)機械を作れる人、(2)機械を操れる人、(3)機械にはできないことをやる人しか仕事を見つけられなくなる、と考えたことがあ る。現在、仕事は二極化してきていて、そういう創造的な仕事と、そうでない単純作業的な仕事に分かれつつあると言われている。
 
この本では、別の視点から職の構成の変化を導き出している。
(1)為替レートが上がる→ブルーカラーが減る、大規模なサービス業だけ残る
(2)大学生が増える→受け皿の数は変わっていないが、ホワイトカラーになれない者が増える
(3)出生率が下がる→内需が減り続ける(→国内の仕事が減る)
別に、リーマンショックのせいではない。その前から存在した上記3点が就職難を生み出しているという。そして、ブルーカラーを中心とした対人折衝しなくて いい仕事が減少し、折衝しなくてはならないサービス業だけが残った結果、それに適応できない人達がフリーターやニートになっているのではないかという見立 てである。
リクルートで長らく人材活用に携わっていた人なので、そしてデータ分析もしていた人なので、単純なかわいそう論への批判には説得力があった。
 
後半には、筆者なりの解決策がいくつか掲載されていた。「大学を「補習の府」にする」というのもそのひとつだが、中小企業との出会いの場を作り、新卒で必 ず就職すべきだという論が心に残った。
就職難は大企業だけの話で、中小企業の有効求人倍率は3倍以上あるのだという。それなら、中小企業で働く中で、自分の適性とマッチした職場を見いだしてい く方が、大企業にこだわってフリーターでいるより、ずっと幸せに近いのではないか。
 
他にも、期限を切って外国人の就労を認めるなどいくつか提言があったが、興味のある方には是非読んでみてもらいたい。タイトルから感じられるような若者を 突き放す内容ではない。表面的な「かわいそう」に対処していてもダメだ。もっと根本の問題があるのだから、それの処方箋を考えていこうという論である。

扶桑社新書
「若者はかわいそう」論のウソ—データで暴く「雇用不安」の正体

海 老原 嗣生【著】
扶 桑社 (2010/06/01 出版)

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%81%75%8E%E1%8E%D2%82%CD%82%A9%82%ED%82%A2%82%BB%82%A4%81%76%98%5F%82%CC%83%45%83%5C

2010年8月19日木曜日

書評:競争の作法 ーいかに働き、投資するか

ここ数日、学校には入れなかったため、近所の大学図書館で仕事をしていた。そこで目にした本。最近の就職難を感じるにつけ、今後の日本経済というのを考え させられるので、手にしてみた。
 
2002年から2007年の景気回復は実感に乏しい。それはなぜか。
ゼロ金利政策が円安を生み、デフレの物価下落を実質的な円安と見なすと、二重の円安となる。それで輸出が好調となった。これが景気回復。
しかし、製造に必要な物資の輸入に金を払い、設備投資に金を使い、国内には資産が分配されなかった。これが実感の乏しさ。
筆者は、これを日本のたたき売りと捉える。しっかり、資産を溜め込むのではなく、外国に持って行かれただけだと考えるのである。それではダメだ。日本を立 て直すには、きちんと経済を成り立たせなくてはならない。
 
その処方箋として、2つを挙げる。
ひとつは、給与の修正である。自分の労働が生み出す利益より多くの給料をもらっているのなら、給与は下がるべきである。そうでないと競争力は保てない。戦 後最長の景気回復期には、労働人口から見ればごくわずかである非正規雇用を絞り、人件費を浮かせていた。その分は、正規雇用の社員が手にしていたのであ る。ほんの少し(筆者の計算では1%程度)の給与減を達成できれば、派遣切りの問題は起きなかっただろうという。
 
もうひとつは、適切な資本活用である。地方の土地の値段は下がり切っていない。だから活用されない。税制を改革して、活用しなければならない状況を創り出 すべきだという。トヨタは世界一を目指して過剰な設備投資を行った。適切に投資していれば、賞与は増え、株主に配当が出ただろう。それは日本を潤したはず だ。

そうやって、適正な競争をすることが財政出動に頼らない(破綻しない)将来に繋がる。
 
私の俸給は、リストが改訂されない限り、定年まで決まっている。そういう給与体系ではダメだと言うことだ。儲ける力が弱まったときには、給与を抑制しなけ れば破綻する。
大学はこれから、そういう時期に差し掛かる。

「きちんとした競争」とその対価ということについて、考えさせられた。
 

ちくま新書
競争の作法—いかに働き、投資するか

齊 藤 誠【著】
筑 摩書房 (2010/06/10 出版)

233p / 18cm
ISBN: 9784480065513
NDC分類: 332.107

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8B%A3%91%88%82%CC%8D%EC%96%40




2010年8月15日日曜日

3世代の街づくり

先日、日野市役所の方の話を伺う機会に恵まれた。
 
日野市は、日野自動車、コニカ・ミノルタなど、多くの工場を抱えている。その
一つ、ビクター八王子工場の売却が決まったとの報道がなされたようだ。
 
工場が落とす税金は、市にとって貴重な財源だ。それが失われる。そして、住宅
ができれば上下水道を整備して学校を作ることになり税金が使われる。ショッピ
ングセンターができれば、道路や交通網の整備に金がかかり、周辺住民との調整
に頭を悩ませる。グローバル化に伴う国内産業の空洞化は、そういった問題をも
たらす。
 
そうなって、お金が足りなくなってくる。市として、その後を考えなければなら
ないという話の中で出てきたのが、3世代の街づくりだ。
 
東京で顕著だが、コミュニティが希薄な地域では、コミュニティが担ってきた機
能が産業化したり、行政の負担になったりしてきた。たとえば、子育てはおばあ
ちゃんやお母さんや近所の年長の子供が担っていたのが、保育園や幼稚園が担当
する部分が増えてきている。食事の提供しかり、服の提供しかり、介護問題しかり。
そう、家政学部が生活科学部になったというのは、家事を合理化するという役割
から、家庭の外部化に伴って生まれた産業に人材を供給するという役割に内容を
変えたということだろう。
 
3世代の街づくりというのは、それをもう一度家庭やコミュニティに戻していこ
うという発想だ。親と子の4人家族。昔標準世帯と呼ばれた家族形態は2世代。日
野には団地も多いが、それは2世代のための空間だ。3世代が暮らせる環境にでき
れば、子が親の介護をするというような可能性が今より広がるだろう。そういう
ことを考えていかないといけない。
 
財政の将来から出てきた発想かもしれないが、家族が近くに住めるのは悪くな
い。生まれ育った街に老後まで居るのも悪くない。そうすればコミュニティも育
つかもしれない。瓢箪から駒の可能性もある。そういうお話しだった。
私は、よいキーワードだと思う。
 

2010年8月14日土曜日

イタリア大使館別荘

湖畔側よりイタリア大使館別荘を臨む
 

アントニン・レーモンドは、チェコ人の建築家である。帝国ホテルを建設したフ
ランク・ロイド・ライトと共に来日し、師の帰国後も日本に留まって多くの建築
をデザインし、多くの弟子を育てた。
ライトはオーガニック・アーキテクチュアを標榜したことで知られる。自然素材
もしくは地場の素材を用い、照明や家具なども建築の一部と見なせるような、さ
らにはできあがった建築が自然の一部と見なせるような、そんな建築を目指した
と解説してみよう。
「有機的建築」と対比する概念ということになれば「人工的建築」ということに
なろうか。工業的建築で埋め尽くされた現在の都会とは別の理想を掲げた建築。
だから、有機的建築は田舎が馴染む。
 
日光・中善寺湖畔には、明治の頃、多くの大使館別荘が建設された。ヨーロッパ
からやってきた大使とその家族達にとって、東京の夏は蒸し暑くて過ごし難かっ
たようだ。20以上もの別荘が湖畔に連なり、夏の外交は日光で行われるという状
況だったらしい。
その別荘のひとつが、レーモンドがデザインしたイタリア大使別荘である。杉の
皮を格子模様にした外壁が印象的な建物だ。ライトが帝国ホテル建設に大谷石を
用いたのと同様に、土地の素材を活かしたのである。造りは至って簡単で、湖に
平行に建物を配置し、部屋を湖に開放する。1階は特にその傾向が顕著で、広縁
の椅子に腰掛ければ、視界には湖と山が目に入るだけだ。
 
受付の女性が言うには、イタリア大使は、コモの風景に似たこのシチュエーショ
ンにこだわりがあったそうだ。イタリア北部、アルプスの南側に位置するコモ
は、確かに急な山肌をバックに湖の平面が映える。それに似ていると言えなくも
ない。本物に比べると、山が低すぎる気もするけれど。
 
10年ほど前に復元されるまで現役だったのだが、相当傷んでいたらしく、国の登
録文化財とは思えないくらい新しい部材が使用されている。原型を留めていない
のではないかと思ったほどだ。
 
しかし、まあどうでもよい。ここは湖を眺めながらぼーっとする場所だ。朝、
コーヒーをすすりながら朝日に染まった山肌を眺める。昼はレモネードを片手に
本をめくり、時よりヨットに目をやる。夕方は、ワインを傾けながら夕日に染
まった水面を眺める。そういう場所だ。
 
当方、少々働き過ぎだなと感じさせられた次第である。
 
いろは坂を過ぎたら、中禅寺湖半を立木観音方面に曲がり、歌が浜駐車場もしく
は運が良ければその先の専用駐車場に車を止めて、10〜15分の散歩の果てに、イ
タリア大使館別荘記念公園にたどり着く。開館は月曜を除く9時〜16時。ただ
し、夏は17時まで開いていて無休だそうだ。

2010年7月24日土曜日

はっきりと結果が出るものが好き

心理量は曖昧だからいやだ。そういう人はいる。生理量ならより確実に見え、物
理量なら、まず確かだ。だから生理量や物理量を計測する。
しかし、研究を聞いてみると生理量が何を表しているのか、物理量で何を表そう
としているのかの対応が曖昧であることは多い。
たとえば、リラックスがコンセプトの飲食店でアルファ波を計測してみよう。瞼
を開いたり閉じたりするだけで値が変わると言われるアルファ波のことだから、
単純ではない結果が出る可能性は大いにある。アルファ波はリラックスの指標で
あるという考えに囚われていると解釈し難い状況に陥る部分がデータに存在する
可能性はあると思うのだ。
リラックスとアルファ波の対応は、睡眠とか安静と呼ばれる状態で確認されたも
のだろう。ある状態ではうまく対応関係を表した指標が、別の状況でも有効とは
限らない。その有効性を確認するには....観察で、インタビューでリラック
スしているかどうか確認し、それと対応関係にあるかどうかチェックすることに
ならないだろうか。それなら、観察やインタビューをすればアルファ波を測らな
くてもいいことにならないだろうか。観察やインタビューに曖昧さが存するのな
ら、対応にも存することになり、アルファ波をリラックスの指標とすることにも
曖昧さが存することにならないだろうか。

まあ、生理量についてはド・シロウトである人間が書いたことだから、間違いが
含まれているかもしれない。しかし、生理指標や物理量というのは、計測は厳密
なような気がしても、こういった対応関係のギャップは大きい可能性があり、だ
から、そんなに偉そうな顔はできないのではないかというのが、心理量らしきこ
とばかりやってきた人間からの指摘になる。
 
学生たちよ。心理量を毛嫌いする事なかれ、と。

2010年7月17日土曜日

変数は無限

xがあれば、xの2乗、xの3乗を作ることができる。xの1/2乗もxの1/3乗も作る
ことができる。それらは別の変数だと言い張れる。つまり、変数は無限に作れる
わけだ。
 
研究として、変数を提案するものがある。なぜか建築デザインの研究などにそう
いうものが多い。街並みを分類したり、建築を分類したりするものがそうだ。分
類を変数というと変な気がする人もいると思うが、名義尺度という言葉があるく
らいだから(これは分類しただけでもスケールになるという意味)立派な変数で
ある。
変数(分類)はいくらでもできる。それらしいものもできる。では、その意味
は? それがよくわからない。
何のための変数(分類)提案かという目的がないものならば、いくらでも研究は
できる。研究に価値があるかどうかを判断するには、価値を計る尺度が必要だ。
たとえば、街の賑わいと街区の構成の関連を見るのだとすれば、賑わいを尺度と
することになる。それとうまく対応が取れる変数や分類が抽出されたなら、研究
は価値があることになる。対応が取れない変数をいくら提案しても価値はない。
 
しかし、目的が明確でない研究はそれなりにあるようだ。それは、どんなバリ
エーションがあるかわかれば、それがデザインを発想するヒントになる可能性が
ある(ように見える)からそれで十分。そう考える設計者側の特性と関係あるの
かもしれない。
しかし、「分類しただけ」とか、「変数を提案しただけ」という研究を見ると違
和感を憶えるので、ちょっと書いてみた。

2010年5月20日木曜日

木曜日の雨の朝はバス通勤

ぎゅうぎゅうぶりを手で現してみた
 
 
雨が降るとバスでの通勤になる。1限がある木曜日は、朝のラッシュ時間にもろ
にぶつかるため、のろのろ。50分強の通勤時間が1時間30分近くになる。だか
ら、木曜日の雨は大嫌い。
 
バスは、中乗り前降り後払い。混雑してくると、乗車口から前はぎゅうぎゅうに
なるのに、後ろは比較的空いていることが多い。移動距離にしてせいぜい2m。降
りる時間としてもせいぜい1〜2分増。でも、後ろに詰めてスペースを作ってくれ
る人は珍しい存在だ。
私はゆったり派だけれども、ぎゅうぎゅうでも前を好む人が圧倒的だというの
は、人より前に出ることの効用が相当に大きいことを表していると思う。
 
なぜ、一番後ろから乗せる方式をやめたのだろうか。
 

2010年5月9日日曜日

実践桜会懇親会報告

実践桜会は実践女子学園の卒業生によって組織された、一種の後援会組織であ
る。昨年・今年と、総会のあとの懇親会に出席させていただく機会があった。私
などは、出身大学に何の寄与もしていない不義理な男であるが、こういった会に
参加すると、ご年配の方々が本当に遠方からもご参集なさる。頭が下がる思いで
ある。
 
懇親会ではお歴々の挨拶の後、食事が供される。しばらくすると、ハワイアンの
演奏と相成った。そのバンドのリーダーが実践の卒業生とのこと。そういえば、
昨年も演奏があったが、そちらはお琴。歴史が長いと、いろいろな分野で卒業生
が活躍しているものだ。
 
さて、画像は即席ハワイアンダンス披露会にて、運動会のダンスがいやでいやで
たまらなかった男が腰をくねらせたシーンである。
見たくもない!?
それはそうだろうが、撮影者の塚原先生が載せろと言うもので。
1年分の冷や汗をかいた。

演奏者の経営するライブハウス
BIRDLAND
http://www.birdland-tokyo.jp/

2010年5月6日木曜日

緑、五月。

桜前線はGWに青森あたりに到達するようである。その残り香が栃木県の北の方で
感じられた。
 
帰省した折、少し田舎道を走ったのだが、緑が美しい。
私が初めて本州の緑を意識したのは、中学の時、友達と北海道にある彼の親戚を
訪ねて津軽海峡を渡ったときであった。本州の緑が暗いのに対し、北海道の緑の
何と明るいことか。その美しさに初めて木々の緑は美しいものなのだなと思った
ものである。
しかし、私は本州の緑をきちんと見ていなかったようだ。暗い緑は松や杉であっ
て、五月の雑木林は明るい。暗い緑をバックに明るい緑が日差しに映え、そこに
散りかけた八重桜のピンクが混じり...。何とも美しいのであった。

ちょうど田植えの季節。田圃の水面に映る雑木林の風景を都会の人に見せたい。
次のGWには、那須あたりの田圃道を走ってみて欲しい。

[カメラを持っていなかったので、美しい風景を撮影できなかった。写真は、新
幹線を待つ間に那須塩原駅のホームから撮影したもの。]

2010年4月21日水曜日

お料理でバースデーを祝う

先週、末娘が6歳になった。うちでは、近所にある妻の実家と合同で誕生会を開
くのが恒例になっていて、10人分の食事を用意し、ワインを飲み(もちろん大人
だけですよ)、ワイワイやることになっている。うまくしたもので、誕生日は割
と一年中に分散している。
 
娘が「ミートソースのスパゲッティが食べたい」というので、父は一肌脱ぐこと
にした。「した」というか、それ以外の選択肢はない。何しろ「最後の恋人」か
らのリクエストである。はりきって作ろう。そう、手打ち麺のミートソース・ス
パゲッティはお父さんの定番料理なのである。
私は昔から「お父さんの○○が食べたい」という料理を3つくらいは作るという目
標を立てていた。共働きだった母に小さい頃から少しは料理を手伝わされたから
か、男女平等という言葉に踊らされたのか、下宿生活の時にほんのちょっと料理
したからか、何となくそう思うようになった。
パーティの準備を一手に引き受けては妻の機嫌も悪くなろうというもの。楽しい
パーティにするためにも、ここは一つお父さんの出番である。
 
一番上の娘にリクエストされたことがあるのは、そのスパゲティと水餃子。昨年
は研究室で水餃子パーティをやってみたが、これは皮を手作りするからうまい。
スパゲティと同じ理屈。
甥のお好みはカルボナーラ。ソースのとろとろ具合の見極めに若干の熟練がいる。
これで3品にしてもいいのだが、先日、飲みながら教わったT先生のカレーを、
うろ覚えながら再現してみたら、息子が一口食べて、「うまい!」
いい息子だ。これでだいたい目標は達成したことになろう。(塚原先生、謝々)
 
カレーを作った日は、妻が一日留守にした日であった。お昼も夜もきちんと作っ
たら、「これで安心して家を空けられるね。」
いや、そういうことではなくて、たまには家族を喜ばせようと思って作っただけ
でして...。
 
料理はさじ加減が難しい。
 

2010年4月13日火曜日

「ルポ 貧困大国アメリカ」をパラパラめくって

立ち読み5分書評。
 
「アメリカには、なぜ兵隊がいるのだろう。アフガニスタンやイラクに行って危
険な目に遭うのがわかっているのに。」
→「今日、食べるものがなかったら、賭をしたくなるものさ。日本だって、就職
難が続けば、自衛隊志願者が増えるだろうよ。」
 
「アメリカ人は、なんであんなに肥満が多いんだろう。」
→「日本で一番安上がりな食事を考えたことあるかい。カップラーメンを3食啜
ることだろう。そういうジャンクフードは、カロリー満点なのさ。アメリカだっ
て同じだよ。」
 
こんなようなことだ。対岸の火事では済まされない話のような気がする。

私は小学生の頃から、資本主義はおかしいと感じている。だって、働かなくても
お金持ちはお金が働いてくれるから、働いている人より儲かるとか、儲けるため
に人より働くと疲れるけど、働かないと食に(職に)ありつけなくなるから結局
終電が目安になるとか、転勤したくないのに転勤させられるとか、何かへんじゃ
ない。
まあ、転勤は主義のせいではないかもしれないが...。
 
民主主義とセットで考えられてきた資本主義だが、本当は別物なんじゃないだろ
うか。資本家に搾取されていないとしても、会社というシステムを生きながらえ
させるには、細胞たる従業員は使い捨てされるしかないのじゃなかろうか。つま
りは、被支配者層に成り下がる運命では!?
 
共産主義は、農業や初期の工業のモデルとしてはまあまあ適合していたような気
がする。資本主義は、その後の工業とサービス業の時代をうまくリードしたかも
しれない。しかし、情報化社会かつ国際化社会の経済モデルとしては、破綻寸前
のような気がする。人々の幸福を保証しないモデルだと思うのだ。
 
このあたりになると、良く考えないと話ができなさそうで、そして、いつもそん
な考える時間は取れなくて、たぶん能力も充分ではないので、立ち消えになって
しまうのだが...。
 
立ち読みしたのは某大学の図書館。お昼を食べに食堂に行ったら、学生は皆、
カップラーメンを啜っていた。
日本、大丈夫!?

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4004311128_1.html
岩波新書
ルポ 貧困大国アメリカ
堤 未果【著】
岩波書店 (2008/01/22 出版)
207p / 18×11cm
ISBN: 9784004311126
NDC分類: 368.2
価格: ¥735 (税込)
 

2010年4月12日月曜日

渋谷コロキウム「光文化と都市」を聞いて

東京都市大学の小林茂雄さんから標記シンポの案内をもらったので、出掛けてみた。
小林さん自身も講演をし、その内容は、これまでと比較しても凄みを増していた
と思うが、6月に本を出す予定とのことであるから、その機会に触れることにし
て、もう一人の演者、石井リーサ明理さんの話から考えたことを。
 
「西洋人はオレンジ色の点で照明し、明暗を付ける。東洋人は白い面で照明し、
ぼんやりと照らす。」エッセンスだけを極端にディフォルメすれば、こうなろう。
ゴシック教会の照明はフライングバットレスだけを照らして奥行き感とコントラ
ストを作るのに対し、天守閣のライトアップは壁面を全体に照らす。そういう洋
の東西の違いの話。フランスを拠点に、日本やシンガポールでの仕事もこなして
いる演者の照明文化に対する考察である。
 
彼女が、先年受賞した照明計画は修道院の照明なのだが、そのアプローチは東洋
的。壁面をぼんやりと照らす照明なのだ。ならば、東洋で西洋的な照明が、西洋
で東洋的な照明が受け入れられる可能性もあるのではないか。
 
彼女が別の方の質問に答えて言うには、「シンガポールにフランス人がデザイン
したコントラストの強い照明があるが暗がりから不安を感じる人がいる。だか
ら、その地域の人を知ることは重要だと思うが、自分が照明デザインをするとき
には、まず、照明する対象をどうライティングしたら魅力を引き出せるか考え
る」とのこと。
これが答えであるように思う。
つまり、いくつかの手法があって、その場面・状況に合うものがある。経験や個
性によって思いつきやすさはあるだろうが、それが文化差と取られることはあろ
うが、世界的な共通性というのも、割に大きいのではないかということ。慣れて
くれば、その魅力に気づいてもらえる可能性もあるのではないかということ。
このあたりは、小林さんの「暗さの魅力」の話とも通ずるような気がする。最初
は気づかなかったものに気づく過程。
 
こんな話を、デザインに興味のある学生にしてみようか。
 

2010年4月11日日曜日

春の訪れ

3月の朝、駅までの道のりを自転車に乗っていると、ふと、花が目に飛び込んで
くることがある。
その場所が日に日に変化し、飛び込んでくる花の種類も変化していく。まだまだ
寒い早朝に春を感じる瞬間である。
 
今年の桜は早めに開花したようだが、その後薄ら寒い日が続いたせいか、長く花
をつけていた。まだ見られるところもあるようだ。

家の近くの自転車道沿いにソメイヨシノの並木がある。4月初旬の休日ともなれ
ば、多くの人が散歩がてら花見と決め込む。
毎朝、その並木を突っ切って行くのだが、私はどうも満開の桜というのが好みで
はない。あでやかすぎるのだろう。それより、つぼみが花になろうとする頃の桜
の方が好きだ。
だが、私は桜より梅がいい。視界が花だけになってしまうよりは、幹、枝の中に
ぽつぽつと花があるくらいの方が、花のある幸せを感じることができる。
 
そんな季節ももうじき終わりになる。
今日は、春というよりは初夏の陽気であった。
 

2010年4月6日火曜日

Google Analytic

いつの間にか4月になってしまった。新年度のドタバタが過熱気味で、自分の仕
事が手つかず。人の間を彷徨っている。
 
さて、このサイトを立ち上げたのがほぼ1年前。ずいぶんページも増えたのだ
が、アクセス数は?
 
そんなことがわかるのがGoogle Analyticのサービス。画像は、ここ1ヶ月にア
クセスする人がいた国を表している。当たり前だが、ほぼ日本独占。それでも、
他の国からたどり着いてくれる人もいるみたいだ。
 
アクセス数は、だいたい15人/日くらい。もう少し増やしたい気もするが、思い
つきを書くようなコーナーなどもあり、全体としてのコンセプトに欠ける嫌いが
あるから、こんなものかな。
 
検索でたどり着いてくれるキーワードには「アフォーダンス」を含んだものが多
い。あと、環境心理学の本の紹介ページも見られているみたいだ。ずいぶん更新
が滞っているので、夏休みにでもリニューアルしよう。
 

2010年3月25日木曜日

協力的な人...

先日、大学院のOGの会というのに出席しました。
大学で研究員をしているというOGが、こんなことをしゃべっていたのが印象に
残っています。
「赤ちゃんの睡眠について研究しているんですが、実験に協力してくれるお母さ
んというのは、決まって働いている人か子供が3人以上いる人なんです。忙しい
はずなのに、そういう人の方が協力してくれるんです。」
 
妻が、PTA関係のことをやっていて、同様のことを話していた。「時間ありそう
な人が、意外と協力的じゃないのよね〜。」
 
どういうことなんでしょうかねえ。
まあ、忙しい人に仕事が集まるというのは、我々の業界でもありますが。

世の中、働く人と働かない人に分かれるということなんでしょうか。暇であるこ
とに幸福を見いだす人と、動いていることに幸福を感じる人がいるということで
しょうか。

うーん。

2010年3月24日水曜日

ネタがないと...英語もしゃべれない

なぜかわからないが、他の研究室で修士を取った学生が研究室を訪ねてくれるこ
とがある。卒業式の日には、10年ほど前に終了したT嬢がひょっこり現れた。
 
彼女は、高校の教師をしていたのだが、ふと!? ニュージーランドで日本語を教
えるというプログラムに参加した経験を持つ。職を辞してまで、出かけていった
わけだが、何と今は、同じような志を持つ人達を派遣・紹介する小さな会社に勤
務しているのだという。
 
その人達に話しているのが、「ネタの重要性」だそうだ。
 
「後輩に話してくださいよ。」と言われたのが、生活環境学科はネタの宝庫だと
いうこと。身近な環境を扱っているから、勉強したことが生活の中で話題にでき
るというのだ。
 
「外国に行けば、英語がしゃべれるようになると思っている人が多いけど、大間
違い。コミュニケーションを取るには、相手に興味を持ってもらえる話題がな
きゃね。日本人だけでつるんでいる人達は、だいたい、しゃべることがないの
よ。」と手厳しい。
 
我々の会話には、身内の会話というのがある。有り体に言えばウワサ話。でも、
これは身内じゃないと面白くないんだな。背景が異なるとウケない。ウケるため
には、相手に興味を持ってもらえる話題を用意しておく必要がある。それが生活
環境学科では学べるというのだ。

ネタは、何も言葉でなくてもいい。
彼女が例に挙げたのは写真。普段の日本の様子を写真に撮っておいて見せるとい
うやり方。写真を見ながらだと、相手がどこに興味を持つかもわかるし、いいネ
タなのだが、こういうものは日本で用意しておかないといざというときに使えない。
 
「普段の勉強のどこが将来役立つかなんて、わかりませんよ。」というのが、彼
女の体験に基づくアドバイス。何でも吸収しておくべきということでしょうか。

2010年3月2日火曜日

いきいき研究室増産プロジェクトでの研究室紹介

2月末、何とか全員が卒業論文を提出。研究室に静かな日々が訪れつつある。
 
さて、思い返せば学科要旨の提出日。提出直後に、M先生の紹介で研究室を訪れ
た岡本さんという院生がいた。彼女は、大学の研究室を研究しているのだとい
う。30分ほどであったか、インタビューを受けた。
研究室の研究にはまっているのだそうだ。学生にとって一番身近な場所のはずだ
が、その運営のノウハウなどは共有されていない。実際、いくつもの研究室を訪
ねてみると、それぞれが特色を持った活動をしている。そういうものをオープン
にしたいと考えているようだった。
 
立派なホームページを持っていて、そこに環境デザイン研究室のことをレポート
してくれたものが掲載された。ご一読いただければ。
 
近々開催されるシンポジウムについても、告知されています。私は行けないので
すが、ご興味のある方はぜひ。
 

2010年2月19日金曜日

講評会を終えて...Is yours a best solution?

昨年に引き続き、卒業制作の講評会が行われた。私は、途中、入ったり抜けたり
しながらの参加。その中で記憶に残っているのが、「今年の学生はみんな頑固だ
から。」というT先生の一言だった。
 
頑固というのが、私は嫌いではない。一つのことにこだわり続けるのが成果を生
むこともあるだろう。しかし、T先生が言っていたのは、最初のアイデアに固執
する傾向のことだった。
 
有名建築家だって、さまざまなスケッチをしながら、さまざまな可能性を探るだ
ろう。その過程では、形は大きく変化することもある。そういう変化が見られな
いのだとすると、問いたい。
「それは、最高なの?」
 
で、やってみたらいいと思うのが、フランクリンが開発したという、功罪表だ。
これは、非常に単純なもので、右に○、左に×を書いたら、その下にいいことと悪
いことを箇条書きにしていく。本来は、その○と×の項目をちょうど同じぐらいの
価値と思うものどうし線を引いて消していき、最後に○の項目が残れば採用、×の
項目が残れば不採用とやる。合理的な判断をサポートするツールだ。
 
もちろん、そうやってもいいが、○と×の項目が意識されたら、×を減らすにはど
うしたらいいか考える。そういうときにも役立つだろう。眺めながら別のアイデ
アを思いついたら、同様にやってみて○の数を増やしていく。そういうことを繰
り返すと、betterな提案に近づけるのでは。
そんなことを考えた。

西洋人は、あの音を気にしない!?

3年生のゼミでputit surveyというのをやった。「小さな調査」をやって、4年
生の卒業研究の予行演習をやってみようというものである。
 
その中の一人が、音姫についてやったのだが、そのプレゼンの時に、排尿時の音
を気にするのは日本人だけだという話をしていた。
中国人は扉のないトイレに列を作って利用するとか、子供はそもそも排泄に嫌悪
感はないとか、つい200年くらい前のヨーロッパやアメリカの都市には豚などが
徘徊していて、糞尿も窓から投げ捨てた、貴族たちは糞尿を避けるために高下駄
だか厚底だかの靴を履いており、庶民は糞尿を投げて遊んでいたとか。そういう
ことを考えれば、音くらいなんでもないのかもしれないが、音を気にするのは日
本人だけだとすると、なかなかに文化的な話だ。
どうして気にするようになったのか。
 
その他も含め、全6編。putit surveyは以下のアドレス。
http://www.jissen.ac.jp/kankyo/lab-maki/student/p-survey/p-survey0900.html

2010年2月4日木曜日

健康寿命

varonさんより、コメントを頂きました。
日本は健康寿命なるものも世界一ですよと。つまり、介護を受けずに自立して暮
らせる時間も、世界一ということです。たいへん、うれしいご指摘でした。
→2010年1月4日月曜日「作られた長寿大国日本 」に対するコメントをご覧ください。

しかし、以下のページを見ると、先進国では平均6.4年も介護が必要な状況のよ
うです。
http://www24.big.or.jp/~keiyousi/kenmin/choujyu/choujyu.htm

自分の晩年を考えると、ぞっとしないなあと思いました。
母が聞いてきたところによると、栄養補給は延命治療ではないのだそうです。一
般的な治療。食べられなくても生きていってしまう。そういう状態になるとき
が、自分にも来るのでしょうか。

varonさんは、健康日本21という国の政策でも取り上げられている?「ピンピン
コロリ」という言葉についても教えてくれました。思い通りに死ぬ秘訣なんてあ
るのかなと思いつつ、簡単に調べてみたのですが、要は、食事や運動に気をつけ
て健康を維持し、できるだけ人様の世話になる期間を短くしようということのよ
うです。それならできそうです。

私はやせ形なのに高血圧気味。食事にもっと気を遣わないと、ピンピンの期間を
長くできないですね。

varonさん、ご指摘、大変ありがとうございました。参考になりました。

 「ピンピンコロリ」については、下記のページを読んでみました。
http://www.asotk.com/healthinfo/rensai/satoh/

2010年1月29日金曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その12

この文章は、昨年の10月頃だったか、娘が高3での科目選択を迫られていた頃に
書き始めた。全部できてから掲載しようと思ったら、3ヶ月も掛かってしまっ
た。娘はすでに履修科目を決定して提出している。
 
それでも、書いておきたかったので、書いてみた。
みなさんに参考になる部分があればうれしい。

2010年1月28日木曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その11

8時間寝て、通勤に2時間、食事と風呂で2時間とすると、仕事の時間は12時
間。まあ、そんなところだろう。人生の1/3から半分を費やす「仕事」がつまら
なければ、それはつまらない人生だ。
じゃあ、何をやっていれば楽しいか。それは、「自分にとって意味があると思え
る仕事」をやっているということだと信ずる。人が何と言おうと、父は自分の研
究テーマを愛しているし、それは人と共有したい。だから、研究ができてそれを
学生たちと共有できる(できると錯覚できる?)今の職業は、それなりに楽しい
ものだと思っている。おせっかいだから、学生を成長させるにはどうしたらいい
か考えるのも嫌いじゃないしね。
 
今後、いろいろと決断をしていかなければいけない場面は増えていくでしょう
が、自分にとっての幸せな状態を考え、それに近づくにはどうしたらいいか、考
えていってください。
そうすれば、きっと幸せに近づけます。
「天は、自ら助くる者を助く。」です。
 
おせっかいな父より

2010年1月27日水曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その10

あれ、理系か文系かの話ではなくなってきたね。
そう、将来の話だ。
理系か文系かも、将来への道筋に過ぎない。後から変更することも可能な道筋
だ。今、しっかりと考えておくべきだと思うが、それで決まってしまうことでも
ない。
 
大事なことは2つある。
ひとつは、自分で決めること。自分で決めれば人のせいにはできなくなる。後で
失敗だったと思ったとしても、自分で責任を取れる。それが潔い。幸い、うちは
商売をしているわけでも、伝統芸能をしているわけでもないから、選択は自由
だ。人の話を聞くにしても(これは重要。情報収集というのは、いつでも重要
だ)、最終決定は自分で下すことになるだろう。

ふたつめは、自分と社会を見つめること。自分は何をやりたくて、どんなことに
向いていて、社会は何を求めているのか。自分の何処が武器になるのか。これか
ら、どんな武器を身につけていけばいいのか。
 
「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。」
 
この言葉を、これから重要な決断をする機会が増える君に贈りたい。

2010年1月26日火曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その9

プロになるだけが、やりたいことを成就させることではない。お母さんが、中学
の養護教諭をやっていた頃、勉強会で聞いてきた話が印象に残っている。
 
野球が好きだから、プロ野球選手になりたい。オーケー。だけど、なれなかった
らどうする?それで、夢は終わりか?
 
いや、社会人として働きながら野球を楽しむこともできるだろうし、教員になっ
て子どもたちに野球を教えることもできるだろう。スポーツに関わる仕事という
ことにすれば、球団の運営に関わるとか、スポーツ・インストラクターになると
か、政治家になってスポーツ振興に力を入れるとか、いろいろ思いつく。
少し幅を拡げて考えると、可能性は「ある」ことに気づく。
 
好きなことに結びついていれば、やりがいがあるというものだ。

2010年1月25日月曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その8

中学の同級生のM君は、サッカー高校選手権で優勝したね。頑張ったんだね。年
代別の日本代表候補でもあるそうだから、将来有望。だけど、彼のお父さんは、
サッカーで飯が食えるほど甘くはないからと、きちんと勉強するように諭してい
るそうだ。確かに、大きな怪我をしただけで、夢は急速に萎んでしまう可能性
だってある。一つのことに集中することはリスキーだ。

今の段階で将来を「これしかない。」と絞ってしまうのは、同様にリスキーだ。
野球だって、サッカーだって、プロとして人がうらやむ給料を稼いでいるのはご
く一部。後は、サラリーマンより安い給料で夢を追いかけているだろう。
将来を考えるとき、「どうやって金を稼ぐか?」は、少し考えておいた方がい
い。工学部などは職業に直結しているように見える。国文学のようなものは、教
員くらいしか直接的な繋がりは見えない。法学や経済学は、一般企業が目に浮か
ぶので選択肢に昇る企業は幅広いだろうが、職域としてはホワイトカラー的にな
るだろう。
学問分野を選択した後、どうやって自活していくか。
 
以前読んだ本に、自分の将来を漠然とイメージしてみるといいということが書い
てあった。室内に籠もって仕事をしているのか、外を歩き回っているのか、お店
で接客しているのか。スーツを着ているのか、作業服を着ているのか。
そういうことも、将来の職業をイメージするときに役立つと思う。

2010年1月24日日曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その7

最近は二世議員が問題視されることは多い。しかし、私は世襲というのにもいい
ところはあると思う。昔から、「門前の小僧、習わぬ経を読む。」とか、「蛙の
子は蛙。」というではないか。
 
落語家は前座修業の頃、特別何かを教えてもらうのではないという話がある。囲
碁・将棋の名人は名人門下からしか出ていないという話も聞いたことがある。確
認していないのでウソかもしれないが、言いたいのは、師匠の芸事に対する姿勢
とか、名人の気構えとか、一緒に生活しないとわからないことがある。それが大
事だということだ。
それを持っている分野がある。それを活かすのも一つの方法だ。

商売人は商売の作法を知っているし、教員の子息は教育者の気構えについて学ぶ
ところがある。
我が家は、教育系と看護系がメインだが、君の曾祖父まで遡れば、ペンキ屋や機
械加工のような職人系の仕事もあり、販売をやっていた祖父もいる。そういった
ことも関連するかもしれない。
 
何となく知っていることが将来強みになる可能性は、それなりにあると見る。
 

2010年1月23日土曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その6

孔子は言ったそうだ。「三十にして立つ。」
私は30歳くらいまで、やることを迷ってもいいと捉えてはどうかと思っている。
私は30歳の時に現在の学校への赴任が決まった。それくらいでも、道が定まっ
て、惑わない境地に達することができれば、十分ではないかと。
まあ、スポーツや音楽ではそんな悠長なことを言っていられないのだろうし、早
くから専心することで延びていく分野は他にもあろう。しかしまあ、「これをや
る。一生掛けてやる。」というものが見つかるには時間が掛かることも多い。30
年くらいは掛かってもいいように思う。
もちろん、それまでに、いろいろ感じて、考えることが条件。


論語 卷第一 【爲政第二】
4.子曰、
  吾十有五而志乎學、
  三十而立、
  四十而不惑、
  五十而知天命、
  六十而耳順、
  七十而從心所欲、不踰矩。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

2010年1月22日金曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その5

ははは。これでは理系でも文系でもいいと言っていることになるではないか。
まあ、そうなのだが。
 
それでは、どうやって選ぶかだが...。私が会社を辞めたときの話をしよう。
 
私は2年で会社を辞めた。最近は新入社員の1/3が3年以内にやめるそうだが、
そのはしりかもしれない。やめる原因としてもっとも大きかったのは、「何を
やったらいいか、思い浮かばない。」だ。コンピュータの会社にいたので、コン
ピュータを売らなくてはいけないのだが、どう提案したらいいかがよくわからな
かった。思いつかないのだ。そういうことは自分に向いていないに決まってい
る。一方、研究については、あれもこれもやってみたかった。思いつくのだ。そ
ちらをやった方がいいだろう。
 
個人的な体験だが、自分の中で何をやったらいいか思いつく、そういう分野を探
すというのは、とてもいい方法ではないかと、今は思っている。
そういう分野を見つけられるといい。
ピンとくれば一番いいし、漠然とでも...。

2010年1月21日木曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その4

さて、それでは万能人にはどんな力が必要かということなのだが、それは「自分
で考える」ということに尽きると思う。
世の中には本を読むと勉強ができるようになるという考えがある。本を読むこと
は大事だと思うが、それだけでは充分ではない。「私は本を読むのが好きで
す。」という学生でも、話をしてみると、それが血肉になっていないと感じる人
がいる。話をしてみるとわかるのは、目は字面を追っているのだろうが、そこか
ら何かを感じ取り、自分の考えというものに昇華させる過程が感じられないとい
うことである。それがないと、深まらない。
 
「学ぶ」は「まねぶ」つまり「まねる」からできた言葉だという説を聞いたこと
がある。「まねる」というのは勉強の第一歩なのだが、それは発見を伴っている
はずだ。
 
父は、大学の体育で野球を取り首位打者に輝いたのが密かな自慢なのだが、それ
は打てなかったときに野球部上がりの学生の打撃フォームを観察して一つのこと
に気づいたことがベースになっている。それは、「膝が折れている」ということ
だった。膝を軽く曲げることにより、目の位置が上下しない姿勢を取ることがで
きる。それがしっかりとボールを見ることにつながると判断し、やってみると打
率が急上昇したのだ。こういうのが「まねぶ」だと思う。
こういうことに理系も文系も関係ない。どちらでもやっていることだろう。

2010年1月20日水曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その3

理系的な要素は理系で磨かれるかというと、必ずしもそうではない。心理学な
ど、人の心を扱うのだから、思いっきり文系だが、中身は非常に理系っぽいと言
われる。心の問題を客観的に扱おうとしたとき、科学の考え方をできるだけ厳密
に取り入れようとしたためだ。建築は普通理系に分類されるが、文系的な、もし
くは芸術的な要素を持ってもいる。
それで思うのだが、これからは文系とか理系とかいう分類は、どんどん意味を成
さなくなっていくのではないか。だって、どの分野にもどちらの要素も存在する
のであって、ならば、どちらもできた方がいいに決まっているではないか。
 
レオナルド・ダ・ヴィンチは一つの理想である。科学技術にも、芸術にも力を発
揮した。万能人。いい言葉だ。父の理想であるし、目指したいところである。

2010年1月19日火曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その2

日本社会では、文系が経営面にタッチし、理系が技術開発をするという棲み分け
が長いこと一般的だった。しかし、最近は理系の経営者も出てくるなど、理系が
文系の領域に入り込むことも珍しくなくなっている。
父は大学で文学部の先生と話をすることもあるし、生活科学部の先生と話をする
こともある。その印象としては、文学部の先生の方が論理的だという印象があ
る。意外かもしれないが、物事を決めるときに約束事に強くこだわる人は文系に
多い。
父は、パッと良い結果が出るのであれば、過去にさっさと決別すべきだと思うの
だが、「今までこうやってきたのに変えるのであれば、きちんとした手続きが必
要だ」というようなことを文系の先生は言う。その時、論理がきちっとしていな
いと、変更は許されない。結論よりもプロセス重視と言おうか。
理系の先生は、そういうことに頓着しないところがあるような気がする。それ
は、論理で人を説得するというより、データに語らせることで説得するという訓
練を受けているからではないかと思う。科学というのはそういうものだ。
もちろん理系の人は論理的に考えているのだが、論理を展開する基になるのは客
観的なデータだ。一方、文系の人が立脚するのは事例だ。過去がどうなっていた
かをきちんと調べて、それに基づいて論理を展開する。
 
ということで、君がデータを取る手間を選ぶか、過去もしくは経験を参照する手
間を選ぶか、どちらに向いていると思うかに、理系か文系かの選択が多少関わっ
て来ると思う。

2010年1月18日月曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その1

先日、机を並べている長女がめずらしく話しかけてきた。高校の選択科目を今秋
決めなくてはならないのだが、その資料を「見る?」というのである。
(...この文章を書き始めたのは昨秋、10月末であった。)

たぶん人生始まって以来の決断であろう。私にも憶えがある。理系か文系かで、
将来は大きく変わる気がするものだ。大いに悩むべきである。
私の決断は悩んだ割には簡単で、志望など決まっていなかったから「理系から文
系には転向できるが反対は無理だ。」という教師の言に従って広い方を選んだ。

妻にも相談したようだが、ちょっと話が長めだったのが徒だったのか、そそくさ
と引き上げたようだ。まあ、人生の経験談を理解するのにも経験が必要な部分が
あるから、良くわからない長話と取られたのかもしれない。
 
それで、父は考えた。人生に関わる話はどうしても長くなる。しかし、長い話も
メールで分割して送付すれば、一つ一つは読むかもしれぬ。どうせならブログに
も掲載してしまえば、原稿のネタに悩む回数も減らすことができる。
 
そんな訳で、人生という長いスパンで将来を考えたときに、理系・文系の選択は
どう影響するのかを考えてみよう。そういう話が数回続く。
 
 

2010年1月12日火曜日

全国高校サッカー選手権におけるホームアドバンテージ その2

娘の中学時代のクラスメートが出場するというので、正月からネットで全国高校
サッカー選手権をチェックしていた。
すると、一つのことに気がついた。同じ競技場で続けて試合をしたチームは、必
ず勝利するのである。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/hs/88th/data/result/tournament.html
ちょっと言い過ぎだったか。多少の例外はある。しかし、優勝した山梨学院大付
属は一回戦で駒場スタジアムを経験していることを考えると、例外は関西大学第
一が八千代に勝った試合だけである。
 
プロスポーツにおいて、ホームアドバンテージは、言われているほど大きくない
ことが多い。しかし、高校生が知らない競技場で試合をするのと、経験済みの競
技場で試合をするのとでは雲泥の差が生ずるのかもしれない。

全国高校サッカー選手権におけるホームアドバンテージ その1

準々決勝は駒場だと言うので行ってみたら東大しかなかった。
準決勝は国立だというので行ってみたら、一橋しかなかった。

2010年1月8日金曜日

想いとシステム

藤原正彦が書いた文章に、「世の中に絶対正しいことなどない。様々な可能性か
ら一つを選び出すのは情緒である。だから情緒力を養うことが肝要である。その
ためには読書がいい。」という趣旨のものがあった。
自由に競争することで便利になった社会に私たちは生きている。それを推し進め
ることで享受できる良さがある。一方、それは不平等が生まれる原因にもなる。
自由がもたらす活気に着目して良しとするか、不平等に着目して良しとしないか
は、論理ではなく情緒が決める。その力を養うことが必要だというのである。
論理の塊と見なされそうな数学者がそういうことをいうのは面白い。

私は彼に共感するところ大であることを告白しつつ、反対のことが重要だと感じ
ることも告白したい。つまり、情に流されては良い意思決定はできないというこ
とである。
前回、病院を訪れて感じたことを書いた。病人一人一人に家族があれば、家族の
想いもそれぞれであるし、事情もそれぞれであろう。おじいちゃんに少しでも長
生きして欲しいと思う孫がいるかもしれないし、長年連れ添った妻の姿を一日で
も長く見つめていたい老翁も居よう。こういった想いは、無視することなどでき
ないものである。しかし、制度設計というのは、そういう個別事例ではなく、全
体の効率を第一に考える必要がある。できるだけ多くの人ができるだけ良い人生
を送るには、どうお金を集め、どう分配するのがいいのか。そこをじっくり考え
て答えを出す必要がある。情は、その判断を歪めてしまう作用を持つことが多い
と思う。
 
「泣いて馬謖を斬る」のは私なら相当に悩むと思うが、孔明は情の危うさを熟知
していたのかもしれない。

2010年1月4日月曜日

作られた長寿大国日本

東北地方で脳溢血による死亡者が激減したのは医療技術の発達よりも冷蔵庫の普
及が大きく関わっているという話を聞いたことがある。保存に塩分を使用する必
要がなくなったことが、医薬品よりはるかに大きな効果があったというのである。
冬場になると脳溢血が原因の死亡者が多かったが、これもだいぶ減少した。これ
はエアコンディショニングがもたらした室内環境の安定が寄与している。エネル
ギーの注入により疾病の顕在化を未然に防いでいるということになる。
 
正月に帰省した折り、入院している父を何度か見舞いに行った。
病院は、エネルギーを存分に使用し、一定の熱環境を維持している。栄養も一人
一人に合わせて必要十分な量を提供する。そうやってベッドの上で人生を全うで
きるようにする。
しかし、父の病室で見た人は、皆、寝たきりであった。皆、何かしら管を付けて
生きている。生命を維持するのに必要なものを、外部から管によって供給するこ
とにより生きながらえている。動き回る自由はなく、今後動き回れるという希望
もない。ベッドの上で、いつか管が抜かれる日を待つだけの人生である。
 
私は、日本が世界第一の長寿大国であることに誇りを持っていた。平均寿命は、
日本の生活の質の高さを示す指標だと思っていた。しかし、それは誤りだったか
もしれない。ただ単に生き長らえている、そう見えてしまういくつもの人生が平
均寿命の値を押し上げているだけだったのかもしれない。
 
彼らは幸せだろうか。もしかするとぽっくり逝ってしまった方が、彼らも、家族
も、費用を負担する社会も幸せだったのではないだろうか。「管」がない方が、
最先端の医療がない方が幸せだった人生もあるのではなかろうか。
医療の現場で彼らと向き合う方々に敬意を抱きつつも、そんな想いを禁じること
ができなかった。