2010年1月29日金曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その12

この文章は、昨年の10月頃だったか、娘が高3での科目選択を迫られていた頃に
書き始めた。全部できてから掲載しようと思ったら、3ヶ月も掛かってしまっ
た。娘はすでに履修科目を決定して提出している。
 
それでも、書いておきたかったので、書いてみた。
みなさんに参考になる部分があればうれしい。

2010年1月28日木曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その11

8時間寝て、通勤に2時間、食事と風呂で2時間とすると、仕事の時間は12時
間。まあ、そんなところだろう。人生の1/3から半分を費やす「仕事」がつまら
なければ、それはつまらない人生だ。
じゃあ、何をやっていれば楽しいか。それは、「自分にとって意味があると思え
る仕事」をやっているということだと信ずる。人が何と言おうと、父は自分の研
究テーマを愛しているし、それは人と共有したい。だから、研究ができてそれを
学生たちと共有できる(できると錯覚できる?)今の職業は、それなりに楽しい
ものだと思っている。おせっかいだから、学生を成長させるにはどうしたらいい
か考えるのも嫌いじゃないしね。
 
今後、いろいろと決断をしていかなければいけない場面は増えていくでしょう
が、自分にとっての幸せな状態を考え、それに近づくにはどうしたらいいか、考
えていってください。
そうすれば、きっと幸せに近づけます。
「天は、自ら助くる者を助く。」です。
 
おせっかいな父より

2010年1月27日水曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その10

あれ、理系か文系かの話ではなくなってきたね。
そう、将来の話だ。
理系か文系かも、将来への道筋に過ぎない。後から変更することも可能な道筋
だ。今、しっかりと考えておくべきだと思うが、それで決まってしまうことでも
ない。
 
大事なことは2つある。
ひとつは、自分で決めること。自分で決めれば人のせいにはできなくなる。後で
失敗だったと思ったとしても、自分で責任を取れる。それが潔い。幸い、うちは
商売をしているわけでも、伝統芸能をしているわけでもないから、選択は自由
だ。人の話を聞くにしても(これは重要。情報収集というのは、いつでも重要
だ)、最終決定は自分で下すことになるだろう。

ふたつめは、自分と社会を見つめること。自分は何をやりたくて、どんなことに
向いていて、社会は何を求めているのか。自分の何処が武器になるのか。これか
ら、どんな武器を身につけていけばいいのか。
 
「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。」
 
この言葉を、これから重要な決断をする機会が増える君に贈りたい。

2010年1月26日火曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その9

プロになるだけが、やりたいことを成就させることではない。お母さんが、中学
の養護教諭をやっていた頃、勉強会で聞いてきた話が印象に残っている。
 
野球が好きだから、プロ野球選手になりたい。オーケー。だけど、なれなかった
らどうする?それで、夢は終わりか?
 
いや、社会人として働きながら野球を楽しむこともできるだろうし、教員になっ
て子どもたちに野球を教えることもできるだろう。スポーツに関わる仕事という
ことにすれば、球団の運営に関わるとか、スポーツ・インストラクターになると
か、政治家になってスポーツ振興に力を入れるとか、いろいろ思いつく。
少し幅を拡げて考えると、可能性は「ある」ことに気づく。
 
好きなことに結びついていれば、やりがいがあるというものだ。

2010年1月25日月曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その8

中学の同級生のM君は、サッカー高校選手権で優勝したね。頑張ったんだね。年
代別の日本代表候補でもあるそうだから、将来有望。だけど、彼のお父さんは、
サッカーで飯が食えるほど甘くはないからと、きちんと勉強するように諭してい
るそうだ。確かに、大きな怪我をしただけで、夢は急速に萎んでしまう可能性
だってある。一つのことに集中することはリスキーだ。

今の段階で将来を「これしかない。」と絞ってしまうのは、同様にリスキーだ。
野球だって、サッカーだって、プロとして人がうらやむ給料を稼いでいるのはご
く一部。後は、サラリーマンより安い給料で夢を追いかけているだろう。
将来を考えるとき、「どうやって金を稼ぐか?」は、少し考えておいた方がい
い。工学部などは職業に直結しているように見える。国文学のようなものは、教
員くらいしか直接的な繋がりは見えない。法学や経済学は、一般企業が目に浮か
ぶので選択肢に昇る企業は幅広いだろうが、職域としてはホワイトカラー的にな
るだろう。
学問分野を選択した後、どうやって自活していくか。
 
以前読んだ本に、自分の将来を漠然とイメージしてみるといいということが書い
てあった。室内に籠もって仕事をしているのか、外を歩き回っているのか、お店
で接客しているのか。スーツを着ているのか、作業服を着ているのか。
そういうことも、将来の職業をイメージするときに役立つと思う。

2010年1月24日日曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その7

最近は二世議員が問題視されることは多い。しかし、私は世襲というのにもいい
ところはあると思う。昔から、「門前の小僧、習わぬ経を読む。」とか、「蛙の
子は蛙。」というではないか。
 
落語家は前座修業の頃、特別何かを教えてもらうのではないという話がある。囲
碁・将棋の名人は名人門下からしか出ていないという話も聞いたことがある。確
認していないのでウソかもしれないが、言いたいのは、師匠の芸事に対する姿勢
とか、名人の気構えとか、一緒に生活しないとわからないことがある。それが大
事だということだ。
それを持っている分野がある。それを活かすのも一つの方法だ。

商売人は商売の作法を知っているし、教員の子息は教育者の気構えについて学ぶ
ところがある。
我が家は、教育系と看護系がメインだが、君の曾祖父まで遡れば、ペンキ屋や機
械加工のような職人系の仕事もあり、販売をやっていた祖父もいる。そういった
ことも関連するかもしれない。
 
何となく知っていることが将来強みになる可能性は、それなりにあると見る。
 

2010年1月23日土曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その6

孔子は言ったそうだ。「三十にして立つ。」
私は30歳くらいまで、やることを迷ってもいいと捉えてはどうかと思っている。
私は30歳の時に現在の学校への赴任が決まった。それくらいでも、道が定まっ
て、惑わない境地に達することができれば、十分ではないかと。
まあ、スポーツや音楽ではそんな悠長なことを言っていられないのだろうし、早
くから専心することで延びていく分野は他にもあろう。しかしまあ、「これをや
る。一生掛けてやる。」というものが見つかるには時間が掛かることも多い。30
年くらいは掛かってもいいように思う。
もちろん、それまでに、いろいろ感じて、考えることが条件。


論語 卷第一 【爲政第二】
4.子曰、
  吾十有五而志乎學、
  三十而立、
  四十而不惑、
  五十而知天命、
  六十而耳順、
  七十而從心所欲、不踰矩。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

2010年1月22日金曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その5

ははは。これでは理系でも文系でもいいと言っていることになるではないか。
まあ、そうなのだが。
 
それでは、どうやって選ぶかだが...。私が会社を辞めたときの話をしよう。
 
私は2年で会社を辞めた。最近は新入社員の1/3が3年以内にやめるそうだが、
そのはしりかもしれない。やめる原因としてもっとも大きかったのは、「何を
やったらいいか、思い浮かばない。」だ。コンピュータの会社にいたので、コン
ピュータを売らなくてはいけないのだが、どう提案したらいいかがよくわからな
かった。思いつかないのだ。そういうことは自分に向いていないに決まってい
る。一方、研究については、あれもこれもやってみたかった。思いつくのだ。そ
ちらをやった方がいいだろう。
 
個人的な体験だが、自分の中で何をやったらいいか思いつく、そういう分野を探
すというのは、とてもいい方法ではないかと、今は思っている。
そういう分野を見つけられるといい。
ピンとくれば一番いいし、漠然とでも...。

2010年1月21日木曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その4

さて、それでは万能人にはどんな力が必要かということなのだが、それは「自分
で考える」ということに尽きると思う。
世の中には本を読むと勉強ができるようになるという考えがある。本を読むこと
は大事だと思うが、それだけでは充分ではない。「私は本を読むのが好きで
す。」という学生でも、話をしてみると、それが血肉になっていないと感じる人
がいる。話をしてみるとわかるのは、目は字面を追っているのだろうが、そこか
ら何かを感じ取り、自分の考えというものに昇華させる過程が感じられないとい
うことである。それがないと、深まらない。
 
「学ぶ」は「まねぶ」つまり「まねる」からできた言葉だという説を聞いたこと
がある。「まねる」というのは勉強の第一歩なのだが、それは発見を伴っている
はずだ。
 
父は、大学の体育で野球を取り首位打者に輝いたのが密かな自慢なのだが、それ
は打てなかったときに野球部上がりの学生の打撃フォームを観察して一つのこと
に気づいたことがベースになっている。それは、「膝が折れている」ということ
だった。膝を軽く曲げることにより、目の位置が上下しない姿勢を取ることがで
きる。それがしっかりとボールを見ることにつながると判断し、やってみると打
率が急上昇したのだ。こういうのが「まねぶ」だと思う。
こういうことに理系も文系も関係ない。どちらでもやっていることだろう。

2010年1月20日水曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その3

理系的な要素は理系で磨かれるかというと、必ずしもそうではない。心理学な
ど、人の心を扱うのだから、思いっきり文系だが、中身は非常に理系っぽいと言
われる。心の問題を客観的に扱おうとしたとき、科学の考え方をできるだけ厳密
に取り入れようとしたためだ。建築は普通理系に分類されるが、文系的な、もし
くは芸術的な要素を持ってもいる。
それで思うのだが、これからは文系とか理系とかいう分類は、どんどん意味を成
さなくなっていくのではないか。だって、どの分野にもどちらの要素も存在する
のであって、ならば、どちらもできた方がいいに決まっているではないか。
 
レオナルド・ダ・ヴィンチは一つの理想である。科学技術にも、芸術にも力を発
揮した。万能人。いい言葉だ。父の理想であるし、目指したいところである。

2010年1月19日火曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その2

日本社会では、文系が経営面にタッチし、理系が技術開発をするという棲み分け
が長いこと一般的だった。しかし、最近は理系の経営者も出てくるなど、理系が
文系の領域に入り込むことも珍しくなくなっている。
父は大学で文学部の先生と話をすることもあるし、生活科学部の先生と話をする
こともある。その印象としては、文学部の先生の方が論理的だという印象があ
る。意外かもしれないが、物事を決めるときに約束事に強くこだわる人は文系に
多い。
父は、パッと良い結果が出るのであれば、過去にさっさと決別すべきだと思うの
だが、「今までこうやってきたのに変えるのであれば、きちんとした手続きが必
要だ」というようなことを文系の先生は言う。その時、論理がきちっとしていな
いと、変更は許されない。結論よりもプロセス重視と言おうか。
理系の先生は、そういうことに頓着しないところがあるような気がする。それ
は、論理で人を説得するというより、データに語らせることで説得するという訓
練を受けているからではないかと思う。科学というのはそういうものだ。
もちろん理系の人は論理的に考えているのだが、論理を展開する基になるのは客
観的なデータだ。一方、文系の人が立脚するのは事例だ。過去がどうなっていた
かをきちんと調べて、それに基づいて論理を展開する。
 
ということで、君がデータを取る手間を選ぶか、過去もしくは経験を参照する手
間を選ぶか、どちらに向いていると思うかに、理系か文系かの選択が多少関わっ
て来ると思う。

2010年1月18日月曜日

理系か文系か、迷える16歳の娘に向けて その1

先日、机を並べている長女がめずらしく話しかけてきた。高校の選択科目を今秋
決めなくてはならないのだが、その資料を「見る?」というのである。
(...この文章を書き始めたのは昨秋、10月末であった。)

たぶん人生始まって以来の決断であろう。私にも憶えがある。理系か文系かで、
将来は大きく変わる気がするものだ。大いに悩むべきである。
私の決断は悩んだ割には簡単で、志望など決まっていなかったから「理系から文
系には転向できるが反対は無理だ。」という教師の言に従って広い方を選んだ。

妻にも相談したようだが、ちょっと話が長めだったのが徒だったのか、そそくさ
と引き上げたようだ。まあ、人生の経験談を理解するのにも経験が必要な部分が
あるから、良くわからない長話と取られたのかもしれない。
 
それで、父は考えた。人生に関わる話はどうしても長くなる。しかし、長い話も
メールで分割して送付すれば、一つ一つは読むかもしれぬ。どうせならブログに
も掲載してしまえば、原稿のネタに悩む回数も減らすことができる。
 
そんな訳で、人生という長いスパンで将来を考えたときに、理系・文系の選択は
どう影響するのかを考えてみよう。そういう話が数回続く。
 
 

2010年1月12日火曜日

全国高校サッカー選手権におけるホームアドバンテージ その2

娘の中学時代のクラスメートが出場するというので、正月からネットで全国高校
サッカー選手権をチェックしていた。
すると、一つのことに気がついた。同じ競技場で続けて試合をしたチームは、必
ず勝利するのである。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/hs/88th/data/result/tournament.html
ちょっと言い過ぎだったか。多少の例外はある。しかし、優勝した山梨学院大付
属は一回戦で駒場スタジアムを経験していることを考えると、例外は関西大学第
一が八千代に勝った試合だけである。
 
プロスポーツにおいて、ホームアドバンテージは、言われているほど大きくない
ことが多い。しかし、高校生が知らない競技場で試合をするのと、経験済みの競
技場で試合をするのとでは雲泥の差が生ずるのかもしれない。

全国高校サッカー選手権におけるホームアドバンテージ その1

準々決勝は駒場だと言うので行ってみたら東大しかなかった。
準決勝は国立だというので行ってみたら、一橋しかなかった。

2010年1月8日金曜日

想いとシステム

藤原正彦が書いた文章に、「世の中に絶対正しいことなどない。様々な可能性か
ら一つを選び出すのは情緒である。だから情緒力を養うことが肝要である。その
ためには読書がいい。」という趣旨のものがあった。
自由に競争することで便利になった社会に私たちは生きている。それを推し進め
ることで享受できる良さがある。一方、それは不平等が生まれる原因にもなる。
自由がもたらす活気に着目して良しとするか、不平等に着目して良しとしないか
は、論理ではなく情緒が決める。その力を養うことが必要だというのである。
論理の塊と見なされそうな数学者がそういうことをいうのは面白い。

私は彼に共感するところ大であることを告白しつつ、反対のことが重要だと感じ
ることも告白したい。つまり、情に流されては良い意思決定はできないというこ
とである。
前回、病院を訪れて感じたことを書いた。病人一人一人に家族があれば、家族の
想いもそれぞれであるし、事情もそれぞれであろう。おじいちゃんに少しでも長
生きして欲しいと思う孫がいるかもしれないし、長年連れ添った妻の姿を一日で
も長く見つめていたい老翁も居よう。こういった想いは、無視することなどでき
ないものである。しかし、制度設計というのは、そういう個別事例ではなく、全
体の効率を第一に考える必要がある。できるだけ多くの人ができるだけ良い人生
を送るには、どうお金を集め、どう分配するのがいいのか。そこをじっくり考え
て答えを出す必要がある。情は、その判断を歪めてしまう作用を持つことが多い
と思う。
 
「泣いて馬謖を斬る」のは私なら相当に悩むと思うが、孔明は情の危うさを熟知
していたのかもしれない。

2010年1月4日月曜日

作られた長寿大国日本

東北地方で脳溢血による死亡者が激減したのは医療技術の発達よりも冷蔵庫の普
及が大きく関わっているという話を聞いたことがある。保存に塩分を使用する必
要がなくなったことが、医薬品よりはるかに大きな効果があったというのである。
冬場になると脳溢血が原因の死亡者が多かったが、これもだいぶ減少した。これ
はエアコンディショニングがもたらした室内環境の安定が寄与している。エネル
ギーの注入により疾病の顕在化を未然に防いでいるということになる。
 
正月に帰省した折り、入院している父を何度か見舞いに行った。
病院は、エネルギーを存分に使用し、一定の熱環境を維持している。栄養も一人
一人に合わせて必要十分な量を提供する。そうやってベッドの上で人生を全うで
きるようにする。
しかし、父の病室で見た人は、皆、寝たきりであった。皆、何かしら管を付けて
生きている。生命を維持するのに必要なものを、外部から管によって供給するこ
とにより生きながらえている。動き回る自由はなく、今後動き回れるという希望
もない。ベッドの上で、いつか管が抜かれる日を待つだけの人生である。
 
私は、日本が世界第一の長寿大国であることに誇りを持っていた。平均寿命は、
日本の生活の質の高さを示す指標だと思っていた。しかし、それは誤りだったか
もしれない。ただ単に生き長らえている、そう見えてしまういくつもの人生が平
均寿命の値を押し上げているだけだったのかもしれない。
 
彼らは幸せだろうか。もしかするとぽっくり逝ってしまった方が、彼らも、家族
も、費用を負担する社会も幸せだったのではないだろうか。「管」がない方が、
最先端の医療がない方が幸せだった人生もあるのではなかろうか。
医療の現場で彼らと向き合う方々に敬意を抱きつつも、そんな想いを禁じること
ができなかった。