2009年7月26日日曜日

山が見える

別荘と言えば山か海だが、私は山のイメージを持つ。生まれ育ったのが三方を山
に囲まれた盆地のような場所だったのだから当然だ。
 
原風景という言葉がある。原体験となるような風景の意である。
私は、毎日那須連峰を見て育った。実家の2階、階段脇の窓からそれは見える。
その辺りから見る那須連峰は人の顔のように見える。活火山である茶臼岳が鼻に
当たるので、たばこの煙を吐いているような、そんな風にも見える。
私は、その顔を見るのが好きだった。毎朝、顔のように見える山並みがあること
を確認し、しばらく眺めてから階下へ降りていくのだった。
 
実家を離れて四半世紀が過ぎた。
その間に東北新幹線が開通した。高架から100mほどしか離れていないので、顔は
ほとんど隠れてしまった。
線路の向こう側にヨークベニマルができた。看板が邪魔で、山はさらに見えなく
なった。
最近、道の向こう側に二階建てのアパートができた。もう、山は見えない。
 
私にとっては大事な風景だが、訴え出て取り戻すわけにもいかない。
だから景観問題は悲しい。自分にとっての価値を誰にもわかってもらえないま
ま、少しずつ消え去るのを見守るしかない。それが悲しい。

2009年7月18日土曜日

香港には緑がない!?

今朝、新聞を見ていたら、北海道美瑛町の一本のポプラの話題が載っていた。私
が小学生の頃、スカイラインのCMに登場したポプラだという。私も以前、学生と
立ち寄ったことがある。そのポプラの隣には一軒のペンションがあった。新聞に
は、そのペンションの客にアジア人が多く、取材時には8名中6名が香港からの
客だったとある。
 
何気なく読んで、通り過ぎたのだが、昼飯時に脇にあったポプラの写真を見て、
「そうか、これは香港にはない風景なのだ。」と思い当たった。中国に行ったと
きに見た雄大な風景は、北海道のそれとはまったく違う。端的に言えば、北海道
の方が明るい。緑が明るい。空が明るい。まぶしいくらいだ。これは確かに魅力
だろう。
 
そう思いついた途端、中国にはなくて日本にはあるものをたくさん思いついた。
そうか、それなら観光立国「日本」もあり得る。
まあ、中国人のバイタリティを許せるのなら、という条件付きではあるが。
 
※今春、パリのエルメスで多くの中国人を見かけた。しかし、ルーブルの中では
とんとお目に掛からなかった。中国人の物欲は二十数年前の日本人並みだと言わ
れる。徒党を組んで買い漁り、食べまくり、しゃべりまくる。
数十年経てば変化するかも知れない。その日まで、寛容でいられるかというの
が、「条件」の意。
 

2009年7月7日火曜日

アイカ工業のカラーマトリックス=カラーキューブ


マンセル色立体 & カラーキューブ
 

先日、日経アーキテクチュアを見ていたら、カラーキューブというカラーシステ
ムに関する企業広告が掲載されていた。塗り壁材(ジョリパット)の色見本が、こ
のシステムに則って整理されているらしい。
これが面白いのである。
http://www.aica.co.jp/newsrelease/20090608.html

色は3属性で表現できる。マンセル表色系のような色相、明度、彩度のシステム
を取れば、無彩色(白、灰色、黒)の垂直軸を中心に据え、外側に行くほど彩度
が増すシステムとなる。白っぽい高彩度色や黒っぽい高彩度色は存在しないか
ら、結局は(多少ひしゃげているけれども)球状の分布になる。他の表色系も似
たり寄ったり。円筒形に近いものが見られるくらいだ。
 
ところがカラーキューブは立方体である。球がなぜ立方体になるのか。それは、
色の基準をY系としたからである。正方形の対角線をグレーに近い黄から純色に
近い黄を並べる。もう一方の対角線の両端に赤と青を並べる。そうすると、中間
にはさまざまな度合いのグレーを含んだ赤→橙→黄→緑→青が並ぶというわけだ。
 
このようにすると、彩度の段階は黄の周辺でのみ豊富となる。赤や青は極端に言
えば1種類だ。それでもいいというのが、キューブのミソだろう。黄の周辺で細
かい色調が必要となり、赤や青の周辺では色数を絞る。壁面の色を用意するので
あれば合理的な選択だと思う。
 
キューブの縦軸はトーンである。Pale, Light, Soft, Dull, Dark, Strong。
トーン・オン・トーン配色、つまり赤系統、黄系統といった色相の系統は類似さ
せ、色の明度や彩度を変化させた配色(たとえば、さまざまな木材で構成された
インテリアはこれに近い配色となるだろう)はインテリア配色のベースとなるも
のだが、それを構成することは容易である。図の手前から奥に向かう系列が類似
色相だから、その系列で縦にスパンとナイフを入れた四角形上の色を用いればよ
い。キューブがアイソメ図として描かれているのには訳があるのだ。
 
なかなかに面白い。

2009年7月3日金曜日

就職できる人材 no.2

実は前々回の話題は、昨日の1年生向け授業の予習だった。
前々回書いたのは、自分で考えて改善していける人物が求められるということ
だった。講師の先生がどうしてそういう話をされたのか、今ひとつ理解できてい
なかったのだが、今回、「急速なIT化の影響」という話が出て、合点がいった。
 
みんなネットで服を買うようになった。デパートの売り上げが落ち、必要とされ
る店員は減った。みんなネットで旅行商品を買うようになった。駅前の旅行代理
店の店員は減った。銀行のオンライン化が進んだ。銀行の窓口業務を行う行員は
減った。
そして、単純な製造業は能力の差が出にくいから、物価が安く、低賃金でも生活
に困らない発展途上国の人々との競争では勝ち目がない。
この2つの事実から、単純な製造業と一般的な接客販売業の求人が減ることがわ
かる。そうすると、残るのは、ルーチンワークではなく、考えることが必須の職
業だ。と、そういうことなのだ。
 
それで思い出したのが、15年前、1年生に私が話していたこと。以下のようなメ
モが残っている。
 
○プロ化の社会
 −機械を使える人
 −機械を作れる人
 −機械にできないことができる人
 
そのときは、IT化がこんなに進むとは思っていなかったから、私の頭にあったの
は、「何でも一人でできる世の中になってきたから、単純作業はなくなるだろ
う。」という予測だった。
私が修士の時は、ワープロソフトで文章を書き、大型計算機で出力したグラフを
トレースして図を清書し、写真を切り取って、1枚の紙に貼り合わせてコピー
し、論文発表のレジュメを作成した。それが、博士の時には、一つのパソコンで
全部できるようになっていた。そうなると、清書する人も、切り取る人もコピー
する人もいらなくなる。下働きの仕事はなくなっていく。そういう読みである。
機械に取って代わられることのない仕事は何か。それを考えたら、この3つに
なった。
 
時代は変わったが、変革の方向性は変わっていないらしい。
そうだとすれば、一部の人だけが儲かる仕組みに向かいつつあるようにも見える。
「国民皆中流」のよき時代は、すでに過去なのかも知れない。