2011年6月19日日曜日

スイスの歴史「命をお金に換える」から その2

最近、留学する日本人が減ったなどと言われる。
それは、日本はいい国だからだと思っている。外に出かけない方が快適なことを
みんな知ってしまったからではないかと。
 
今、稼いでいるのはBRICs(Brazil, Russia, India, China)のあたりだろう。
そこに行けば稼げることがわかっているから、そこに行く?
多少収入が落ちるくらいなら、日本にいた方が快適だ。それが内向きになる理由
だと思う。
 
ヨーロッパやアメリカに追いつき追い越せの頃は、そこに魅力があった。自分た
ちの国ではできない生活があったから憧れというニンジンがぶら下がっ てい
た。しかし、これからの稼ぎは、先進国ではなくて中堅国や人口の多い発展途上
の国で得ることになるだろう。
 
魅力的な場所ではないけれど、そこで稼がないとしょうがない。そのとき、そこ
で働きたいというモチベーションは必ずしも高くないのではないか。ま た、 最
高の物品を作って売るという先進国が行ってきたビジネスも限界に近づきつつあ
ることだろう。購買力に合わせて安かろうまあまあだろうという物品を作る。
それもモチベーションを低めることになるかもしれない。

出稼ぎだ。
それによって背後に控える国土に残る人々が潤う。問題は出稼ぎの人より背後の
人の方が快適な生活を送れる可能性が高いことだ。内向きの問題は、 「猫の首
に鈴」問題のような気がする。
誰かがやらないとまずいことになるのはわかっているが、率先してやる人は少ない。
 
日本は内向きになっていくだろう。それは衰退を意味するが、処方箋を書くのは
なかなか難しいような気がする。

スイスの歴史「命をお金に換える」から その1

ルツェルンの名所の一つ「瀕死のライオン」のレリーフは、ブルボン王朝の最
期、ルイ16世とマリー・アントワネットを守るために殉死したスイス傭 兵を記
念したモニュメントである。スイスの傭兵は任務に忠実で信頼が置けるという評
判を率直に表している。
 
地球の歩き方にはこう書いてあった。
「観光や精密機械などの産業がなかった当時、優秀な傭兵は貴重な輸出品だった
のだ。」
この記述が私にはショックだった。産業がないと、人の命もお金に換える必要が
あるのかと。
 
農業は一家族しか養えない。だから土地は長男が相続して、次男以下はどこかに
出かけていくことになる。産業革命もそれで成立したのだ。職を求めて いる人
がたくさんいたから、過酷な労働条件でも働かざるを得なかった。
 
往きの飛行機で読んだ塩野七生さんの本に、ヨーロッパの人が移民に対して怒っ
ているのは、そうやって築きあげて来た生活や権利を、努力もしないで 享受し
ようとするからだという意のことが書いてあった。移民の問題は、その人たちに
享受させてあげようとすると、これまでの生活を享受できなくな るというジレ
ンマにある。お金は無尽蔵にあるわけではない。
 
産業を興すというのは大事なことだと感じ、さて、それではこれからどうすれば
いいかと考えると...続く。

テーブルクロスとナプキン

シリアル、コーヒー、クロワッサン。ヨーグルト、サラミ、オレンジジュース。
 
朝ご飯を食べ終わる頃、ふと考えた。何でナプキンとかテーブルクロスとか、毎
回洗濯しなくてはならないものを使うのか。

昔、バルセロナの知り合いを訪ね一緒に食事をした時、彼がコップに口を付ける
前に必ず口を拭うことに気づいた。そう、コップは油分が付くと目立つ し汚
い。だからナプキンで拭うのだな。
日本はと考えると、油を使った料理が少ない。だからナプキンがないのか。
器も不透明だな。それに茶碗の底は深い。ご飯の上におかずを載せたりして使え
ば、器は汚れが目立たない。そういうことも関係しているかもしれな い。
 
テーブルクロスは?
日本だと、台拭きでテーブルを拭いてから食器を並べる。洗わずに拭く訳だ。西
洋では、テーブルクロスの上にパンを置いたりする。それが可能なの は、パン
が乾燥しているからだ。
パンはカスが散らばる。テーブルクロス上に落ちることによって、受け止めたこ
とにしているのかも。一度だけ、(日本の)フレンチレストランで、デ ザート
の前にパンくずを器具を使って取ってくれたことがある。でも、食事の途中で台
拭きを持ち出すことは、汁をこぼした時以外、ないよね。これは テーブルクロ
ス器論を補強してくれはしないだろうか。
 
こう考えてくると、食べ物の特性が関係しているように感じられる。だけどふ
と、「西洋人は、風呂も毎回湯を替えるなあ。」と思ったのだった。
「人が入った後のお湯はいや。」に近い感覚がないだろうか。
 
いや、カップラーメンも使い捨て。日本人だってそれに近いことをやっている。
うーん。
でも、そういう行為を「もったいない。」と感じている気もする。それは欧米人
にはないんじゃないかなあ。用途に対して対価を払う。そうして役割を 全うし
ていればよしと考えるような気がする。
 
環境心理学のテキストに、「ecocentrics(生態中心主義:生態系にとっての便
益を考え、それに沿わない行為は、たとえ人間に利益があっ たとしても控える
べきというような考え)」とか「anthropocentrics(人間中心主義:人間にとっ
て便益のある行為は許される)」と 言った言葉が出てくる。立場の違いを明確
にしようとするのが欧米人らしいが、たぶん前者が目新しい概念なのだろう。
テーブルを拭っただけでは次の 客を迎える準備にはならないというのには、背
後に個人主義と人間中心主義があるような気がする。
 
 プレゼントをもらったらビリビリ破いて喜びを表す人達と、まだ何かに使える
かもしれないと丁寧に剥がす人達。
 「もったいない。」が流行語になるのは、ある意味、自然なことかもしれない。

...なんて。

2011年6月12日日曜日

東京が物価世界一?

フランスもスイスも物価は高い。
ホテルが3割増し。食事は5割増しのような気がする。
にも関わらず、物価指数は東京が世界一なのだそうだ。
ネットで見たのかなあ。最近得た情報です。

いやー、でも、マックも牛丼も讃岐うどんも、みんな価格破壊で安いじゃないで
すか。「日本だと、この値段ならもっといいものが食べられるよ な〜。」と
思って食べる気が失せることもあるのに(で、持ち込みのインスタント食品に頼
る。また、これがうまい。)、本当に世界一なのだろうか。
 
もしかすると住居費とかが安いのかもしれない。また、旅行者が持っていれば料
金が半額になるスイスカードなんてものもあるくらいだから、住んでい る人の
交通費は相当優遇されているのだろう。
でも、食料品やホテル代は高いのだ。

フランスもスイスも農業国である。食料品を守るため、食べ物は高い。雇用を守
るため、人件費は高い。だから、物価が高いのではないかと。
そういうのは一つの方針としてあり得るだろう。もっとも、自由経済の中で守る
のだから、何某かの保護政策が必要だ。

日本は、技術もお金もどんどん流出して行くに任せている。フランスやスイスと
違う道を取っているのだとして、その行く末は大丈夫なのだろうか。戦 略的に
考えられた結果なのだろうか。少し心配である。

トレッキング in Switzerland

世界最初の登山鉄道はArth-GordauからRigi山の山頂へと至る。
もちろん観光客もいるのだが、地元のおじいさん、おばあさんが乗り込んで一頻
り話に花を咲かせている。彼らはパスを持っているので、これが日常な のだろう。
面白いのは、一人一人が別々の駅で降りて、別々に山歩きを楽しむことだ。群れ
ることが多い日本人とは違いますね。本当に身近な レジャーなのだなと感じま
した。
 
さて、山頂から下り始めると、自転車の2人連れに追い抜かされました。なるほ
ど、マウンテンバイクというのは、こういう土地を走るためにあるのだ な。電
車で上がって自転車で下りてくるのなら、楽しめようというものだ。
こんなことも、その場で経験しないと実感が湧かないものです。

トレッキングは散々でした。
天候は最高に近く、山並みもそれなりに見えました。湖もきれいでした。
しかし、8kmあまりの行程で1,300mの標高差を下るのは、あまりにもおしりと太
ももに負担を掛けすぎます。お薦めできません。きちんとした 靴とスティック
が必要です。
 
完璧な筋肉痛で、立ち上がるのもつらいです。

2011年6月11日土曜日

家は直線、道路は曲線

空港を飛び立った頃、比較的低空飛行の時に地面を眺めていると、ラウンドアバ
ウトが見えた。日本で普及していないよなと考え、これも文化差かとい う考え
が閃いた。
ラウンドアバウトは、ロータリーに次々と車が進入してくるわけだから、自分で
判断することが求められる。信号は、言われたとおりに進んだり止まっ たりす
ることを求められる。国民性が普及と関係しているのではないかと。

まあしかし、設置に必要な面積も関係するかも。これは環境差か。
Wikipediaの記述。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%88

さて、もうひとつ気づいたのが、建物は直線でできているけど、道路は以外と直
線部分が少ないということ。もちろん、スイスだからという事情はある かもし
れないが、地面というのは以外と起伏があり、それを均す労力を掛けるより、起
伏に添って道路を作った方がいいということだろう。
 建物を作るというのは、以外と小さな面積の話で、そこでは便利な直線を使う
けど、もうちょっと大きな単位を扱う都市計画や土木の世界では直線に すべき
という圧力は弱いのだなと。それに気づいたのが新鮮だったのでした。

2011年6月10日金曜日

色が拡がる


国際色彩学会(AIC)の中間大会に参加中。今回のテーマは、「Interaction of
Colour & Light in the Art and Sciences」である。
これは時宜を得たテーマだと思う。最近LEDの普及が目覚ましいが、LEDは青色ダ
イオードの発明によって三原色が揃い、自由に色を構成すること ができるよう
になった。それは光色のバリエーションを豊富にするから、光と物体の色の関係
を考慮する必要性は格段に増した。実際、多くの発表が LEDを扱っていた。

それらの研究発表やデザイン報告では、赤・緑・青...と多くの色光が出現す
る。私にはそれが、Powerpointを習い始めた学生がトラン ジッションや音の効
果を使いすぎるのと同じように見える。新しい機能を習うと使いたくなる。現在
のLED研究は、それと同じ状態に見えるのだ。
 
色彩調和論では、色相もしくはトーンを統一することが心地よさを生むと言われ
ることが多い。これまでは黒体軌跡に乗った色(橙−白−青白)の光が 大半で
あったから、色の統一性の問題は、存在するにしてもそれほど大きなものではな
かった。放っておいても、ある範囲の統一性が得られることが多 かったのだ。
色が多様になると、それを混ぜて使う。見慣れない色があふれる。そういう物珍
しさの羅列に見えなくもない。
 
以前、キャンパスイルミネーションを見学させてもらった時に感じたのだが、色
光を使うようになると、良さが失われる。ただし、写真映りは悪くな い。実際
に見たときにはいいと思わなくても、写真にするとそれなりに見えてしまうこと
がある。
 
そういうことはあるにしても、私はこのConfusionから早く抜け出して欲しいと
思う。
あまり創造的な結果にはならないような気がするのだ。