2011年1月29日土曜日

新潟の女子高生

先日、卒業研究の中間発表で聞いた話。「新潟の女子高校生のスカート丈が一番
短い。」
発表した学生によると、あまりに短いので修学旅行で訪れた沖縄で苦情が出たこ
とがあるのだとか。
 
新潟と言えば、豪雪地帯。冬の寒さも半端ではないだろう。それがどういうこと
なのだろう。
慣れさえすれば、寒さなど関係ないのだろうか。

研究室の学生は、結構ヒートテックを利用しているようである。それとのギャッ
プを感じる話題である。

2010年12月26日日曜日

姿が煙と消えて...

先日、葬儀社の方と話をする機会があった。彼が語った火葬の意味に纏わる話が
印象に残っている。
 
交通事故で息子を失った悲嘆に暮れる母親。泣き叫び、喚き散らし、取り乱して
いた母親が、火葬場で納骨すると、とたんに吹っ切れたようになる場面 に何度
か出くわした。そういう話である。
 
偶像崇拝というのがあるけれども、形の力はすごいのだなと思った。
 
 

2010年12月11日土曜日

一人で頑張っちゃう日本人!? -Give and takeのすすめ-

「心理学ワールド」は日本心理学会の機関誌である。
最新51号に、守谷慶子先生が書かれていたことが印象に残ったので、書き留めて
みる。
 
「The giving tree」という絵本。少年がリンゴの実や枝を利用し、最後は幹も
切り倒して持ち去る。そういう物語。その絵本に対する感想が、「リンゴに頼っ
てばかり。 自分で自分のことはやるべき。」と指摘する日本の子どもが多かっ
たのに対し、「少年はもらうばかりでずるい。もらうなら、与えるべきだ。」と
考え る英国・スウェーデンなどの子どもという図式だ。
 
何でも自分でやらなければならなくて、他人との干渉を避ける日本人は、孤独な
のではないか。
自分でやるのと、やってもらったりやってあげたりするのと。後者の方が人との
交わりができるに決まっている。日本の自殺者の多さは際だっている が、それ
が自己責任にされているように、確かに思われる。私自身も、多少そういう解釈
をする傾向を持っているような気がする。そういう社会が、冒 険を拒み、協力
を拒み、うまく行かないことが多ければ無気力を、そして孤独を生み出す。そん
な解釈もできるかもしれない。
 
虚礼廃止のようなものは、それでいいと思うが、Give と Takeを交換しあうこと
は存外大事で、もしかすると、子どもに教えていかなければいけないことなのか
も知れないと感じたのだった。

テレビゲーム占有率75%

息子が小学校のサッカーチームに入った。年に一度の忘年会に、親子共々参加す
ることになった。
そこで、私にとっては異様な光景を見ることになった。
 
場所は居酒屋。3つのスペースに分けられた。子どものスペース、母親のスペー
ス、コーチと父親つまり大人の男のスペース。互いの交流はほとんどな い。
 
しばらくして、男のスペースからは見えなかった子どものスペースを覗いたら、
何と...。
子どもたちは皆DSをやっているのである。数えてしまった。19人中15人がDSを
持っていて、銘々が画面をのぞき込んでいる。残りの数名が、そ れをのぞき込
んでいる。
 
みな、何をしに来ているのだろう。
不思議な光景であった。

2010年11月27日土曜日

公開講座「子どもの安全のためのデザイン」

子どもの安全のためのデザイン
−病院の傷害データから「キッズデザイン」を考える−
 
生活環境学科が中心となり、産業技術総合研究所 デジタルヒューマン研究セン
ターの西田さんをお呼びして、標記の公開講座が開催された。大変面白く、かつ
楽しい、そして為になる会となったので、少し報告 したい。
 
私の息子がストーブに触れて火傷をしたとき、看護副婦長をしていた叔母に妻が
言われたこと、「そんなの、母親の責任だよ。」は、今のところ evidenceがな
いようだ。見守りによって事故が減るというデータはないというのである。私自
身の感覚としても、見守っていても気づいたとき には手を出すのが間に合わな
い。したがって、見守りの効果というのは、実はいつも見ているということでは
なく、見守る中から危険を予測してそれを 予防する措置を取るかどうかである
と思う。
 
見守りの効果が小さいとすると、環境をどうにかしなくてはならない。デザイン
の出番である。では、どういうデザインにすればいいのか。それを考え るに
は、データがいる。わざわざ怪我をさせて観察するわけにも行かないだろうか
ら、どういう場合にどんな怪我が起きるのかのデータを集めるには病 院の協力
がいる。それで、西田さんは病院からデータを集めるためのシステム構築をし
た。そうすると、自転車が倒れたときに頭部を強打して骨折する ことが多いと
いうようなデータが集まり、ヘルメットをかぶらせる効果が大きいことが明らか
になってくる。
あれ、デザインの話ではなくなってきた。そう、デザインではなく、制度や教育
でも解決に近づけることが可能だ。
洗濯機の上に子どもを置いて入浴の準備をしている間に子どもが落ちたなどとい
う事故もそれなりにあるのだそうだが、これなどは、ドラム型の洗濯機 にせず
とも、そういう情報を親に提供して注意を促してもいい。
 
※3Eと言うそうだ
Education:教育
Enforcement:法律
Engineering:製品・環境改善
 
実はデザインの話もあり興味深かったのだけれど(螺旋階段のある階段の内側に
手摺りをつけることによって掴める場所を作るだけでなく、登る経路を 外側に
することによって傾斜を緩やかにするという実践。蒸気の温度を下げて排出する
炊飯器の開発など)、会場で問題意識として得られたことを3つ 話をしよう。
ひとつは情報の提供。一般の人にとってデザインというのはファッションのこと
であって、プロダクトのことではないという話が会場から出た。そうい う興味
のない人にどうやって情報を発信していくか。インターネットの活用や知識を伝
達できる人材の育成の話が出てきた。
もうひとつは、できることをやろうということ。雨の日に事故が多いからと言っ
て、天気は変えられない。生後12ヶ月頃に誤飲が多いからと言って成 長は止め
られない。ならば、制御可能な変数を変更することを考え、そのためのデータを
集め、3Eとして役立てようということ。
3つめに、経済効果も考えようということ。事故が後遺症として残れば、就業機
会を失い、医療費や介護費用の負担(もしくは介護による就労機会の喪 失)に
繋がり、大きな損失となる。何もしないことは、目には見えない損失を放置する
ことという論は説得力があった。
 
関連サイト
子どもの傷害予防カウンシル
http://www.cipec.jp/index.html

2010年11月15日月曜日

旅日記<18> - ベネチアの街で

夕方の便に乗るので、少し時間があった。
 
街を歩き回っている中で、ベネチアの広場・街路・中庭と建物を白と黒で塗り分
けたら面白かろうと感じた。芦原義信氏の「街並みの美学」に紹介され ている
ノリの地図をベネチアでやってみたらという思い付きである。
ベネチアでは、ごく細い路を進むと急に広場に出合って視界が開けるということ
がある。路の広さも一定しない。そういう面白さが、どんな都市計画と 結びつ
くのかがわかるのではないかと思ったのである。

しかし、地図を作らずとも3つのことが関係していると思い当たった。
 
ひとつは、人は車よりずっと幅が狭いということである。
こんな狭い路でも人はすれ違えると思ったときに気づいたのだが、1mの幅で人が
すれ違ったとして、車にすると4mくらいにはなるだろう。これを規 準としたと
き、街は4倍のスケールを持たなくてはならないことになる。それはすでにス
ケールアウトだ。「人が通れればいい。」という条件だからこ そ、変化が付け
られる。
 
次は人が建物に吸い込まれるということだ。カフェがあり、家があり、美術館が
あり、教会がある。そういうところに人が吸い込まれるから、街路や広 場が移
動したり立ち止まったりする空間として成立している。車は人が入るスペース以
外に駐車場を用意しなくてはならない。それも直線と緩やかな曲 線だけで成立
するものでなくてはならない。
それなら、人がステップを踏んだり、ターンしたりできることも変化をつける可
能性と関わっていそうだ。
 
3つめは、ヴァポレットやゴンドラが交通として歩行者と独立していることだ。
車を悪者にして説明してきたが、ベネチアでそれにあたるのが船だ。船 たちは
人の移動とは別のレイヤーを移動している。動きが人と異なるため、別の空間形
態を要請する「交通」が重ならないからこそ、歩行空間に変化を 与えられる。

こんなことを考えながら歩いて、そうか、面白い街というのは、やはり歩くこと
がベースにある街なのだなと思い至った。
 
 

旅日記<17> - 天井画は鑑賞に堪えない?

朝、宿の近くの教会に行ってみた。
「地球の歩き方」では星が3つ付いていたが、行く必要はないものだったと思
う。確かにティントレットとかベルニーニとか、有名どころが描いた天井 画な
どがあるが、照明もひどいし、距離が離れているので見るに堪えないのだ。
 
タブロー(tableau)というのは、ダ・ヴィンチが発明したというのはウソだろ
うか。彼は何枚かの絵を持ち歩いていたと言われる。そういう絵 の描き方は、
絵が建築に従属しないようになって初めて出てきたもので、長いフレスコ画の歴
史から解き放たれて油絵(祭壇画など)が主流になってい くエポックだと認識
している。
 
とにかく、教会で見る天井画は感動できない。同じティントレットでも、美術館
にあるものは鑑賞の対象となる。感動もできる。しかし、天井画は装飾 に過ぎ
ないような気がする。距離と大きさ、照明状態、見上げるという行為、これが絵
画には向いていないのだと思う。装飾については、天井を見上げ ても感動でき
ることがあるが、それは凹凸があるからだろう。
 
さて、こういうことを考えてきて、ミケランジェロやラファエロは偉大なのだな
と思った。『アテネの学童』や『最後の審判』は...ありゃ、やっぱ り天井
ではなく、壁にあるのね。